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投稿番号:41495 投稿日:1999年11月06日 02時38分09秒  パスワード
お名前:三三
 

21世紀の民主主義PRT2(決定とは)

キーワード:21世紀 民主主義 意思決定 第1別館

コメントの種類:提案


21世紀の民主主義PRT2(決定とは)
今の民主主義と、筆者が原案を示し、皆で論じながら、完成させようとしている21世紀型民主主義の善し悪しを論じようとしているのですから、その前に、良い決定とは何か、という共通の認識、共通の尺度が必要と思います。そこで、このスレッドに「良い決定とは」のたたき台を書いてみますので、修正があれば、コメントしてください。

1.良い決定の一つとして決定のための時間や、コストや労力を判定の要素に入れず、すなわち、時間的には直ちに、コスト的にはゼロで得られたとして、最善の結果が得られるもの、真(真理)であること。すなわち誰が考えても、同じ結論になる。後の世の人が考えてもそうなる。絶対的真理みたいなもの。「決定の理想解」と呼んでおきます。(DECISION MAKING )の方でどう呼んでいるのでしょう。素人が論じているので、すでに在る学問の方から不適当と思えれば、ご指摘ください。訂正します。
「決定の理想解」はどのようにして得られるか。その決定に関係しているあらゆる情報を手にし、それに基づいて、正しい計算や、論理的に正しい推理を重ねれば到達できるもの。その決定を覆す情報はもはや他にないもの。しかし、それは理想の解、収斂値であり、現実には、情報を集め、推理するのに、時間的、金銭的、能力的な限界が在り、得ることが出来ないもの。

2.「決定の理想解」の一つとして、あるいはその他として「神の決定」が存在すると仮定しておきたい。それは人間の通常の推理では到達できない解。神に掲示を受けた人、すなわち
天才、が閃いたアイディアを推敲して得られるもので、その価値は後になって分かるものの発表された当時はほとんどの人々の理解を超えているもの。真、善、美を備え、自然の摂理にかない、それを理解した人は、その精妙さに感動するようなもの。

3.いかに良い決定であっても、「6日のあやめ、10日の菊」では価値がない。時宜を得た決定であること。

4.決定のコストが小さいこと。決定するために微に入り細を穿って、喧喧諤諤やっても、
決定に要したコストにも満たないようでは良い決定とは言えない。

5.その決定を多くの人が歓迎するもの。多くの人に支持される決定は、自ずから守られ、遂行される。

6.不公平がなく、結果を受け入れがたいとする、人がいないこと。怨みや、憎しみが嵩じて、集団から離脱し、集団を敵視するものがいないこと。

おおよそ、考えられる良い決定の条件をならべてみました。何か抜けているものが在れば補足して下さい。


ヤントさんからのコメント(1999年11月06日 03時27分14秒)
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KORNさん、三三さん、お返事、ありがとうございました。

多数決が割とうまく作動する場合は、どんな時か、考えてみたのですが、どうも下のような状況しか思いつきませんでした。何か、他にもあれば、教えて下さい。
(私は下のような場合ですら「大間違い」しかねない・・・とは、本当は、思っているのですが。)

   1,3人の酒好きの仲良しが、飲み会をすることになりました。そこで、「おでん屋」がいいか、
     「洋酒屋」がいいか、多数決で決めました。この場合は、多数決、オッケイです。
   2,社会の殆ど(例えば、99%)の人が、とても貧しい、食うや食わずの暮らしをしてます。
     このような社会ならば、争点の相違あるでしょうが、多数決は次善の策(意志決定手段)に
     はなりそうです。
   3,社会の全員の人が、とても豊かな、暮らしをしてます。
     みんなお金もまあ潤沢、仕事もやりがいある、家族も円満です。
     このような社会ならば、あまり重大な問題もありませんので、多数決、いいかもしれません。
     次善の策にはなるかもしれません。

   1はともかくとして、2や3の状況は、現代日本を考えると想定出来ないように思います。
   じゃあ、日本はどんな社会か?って、考えると、こんな感じじゃないですか?

   4,一部(例えば一割くらい?)の「恵まれた人」(お金もちだし、仕事も楽しい、家族も円満・・)がいて、7割くらの「普通の人」(一応、「中(流)」意識なんて持ってる人です)がいる。
     そして、残り二割くらいの「あまり恵まれない人」(適切な表現じゃないと思います。すみません)。

   で、4のような状況で、多数決すると、どうなるかと言えば、7割くらいの「普通の人」に、都合のよい結果になるのではないですか?。社会で一番困っているのは、上に書いた、「残り二割」の人ですが、これらの人にとって最良の選択は、永遠に出来ません。

   私は「強きをくじき、弱きを助ける」ヒーローが好きですが(自分がなれないので)、多数決は「弱きをくじき、強きを(この場合7割の「普通」の人)助ける」決定になりませんか?。それとも、このような決定結果でいいのでしょうか?。
   この決定は、なるほど、「最大多数の最大幸福」の状況ですが、これが「最大多数の最大幸福」なるものなら、やはり、マズイなあって思うのですが。
   どう思われますか?。
   長くなりました。すみません。

   で、三三さんの「よい決定」の定義に、「強きをくじき、弱きを助ける」決定である、というのは入りらないでしょうか?
   

な〜さんからのコメント(1999年11月06日 13時54分13秒)
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な〜 です

素人の私にはとてもわかりにくくていつも直感のみでの
質問になるのですが

真理といえる決定というものはそもそも存在するのでしょうか?

例えば内定をもらった企業が2社あった。どちらかを選ばないといけない。
A社に就職した。
5年間は仕事がおもしろくて給料もよかった。でもバブルがはじけて
不況になりついに倒産した。
とすればその段階でA社に就職したことが謝った選択で
B社に就職することが真理の選択といえるのでしょうか?

真理というのはあるのでしょうか?

真理は一つではない、また人の気持ちは変わるもの、
これは私の常日頃の心情です。

三三さんからのコメント(1999年11月06日 23時10分11秒)
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みなさん今晩は 以下は特定の人に書いてるように見えますが、そうではないのです。ここに書かれている事に対し、賛成反対なんでも意見が有れば遠慮なくコメントして下さい。

ヤントさん 今晩は
サッカーオリンピック出場出来て良かったですね。トルシエ監督が「日本のみなさん、もっともっと大騒ぎして喜んでください」って言ってましたね。あれ良かったですね。皆で手放しで喜ぶ。それ見て選手達も、喜ぶ。負けたカザフスタンの選手達も、おれたちに勝ってあんなに喜んでるんだ。おれたちも良く戦ったってことだと素直に喜べるんじゃないかな。じ〜ん。

>「よい決定」の定義に、「強きをくじき、弱きを助ける」決定である、
>というのは入らないでしょうか?

う〜ん、その気持ち分かるんですがね。「強きをくじき、弱きを助ける」とうのは、強いのは控えめに抑えて、弱い人が損をすることのないようにということでしょう? 。
>NO6.の、不公平がなく、結果を受け入れがたいとする人がいな
>いこと。怨みや、憎しみが嵩じて、集団から離脱し、集団を敵視す
>るものがいないこと。
の範疇には入りませんかね。もし違ってたら、もう一度あなたの気持ち説明してください。

な〜さん 今晩は
な〜さんとは、あなたの知らない内に、「21世紀の民主主義」のスレッドですっかり胸襟を開く中に仲になったような気がしているのですがね。(^^;
もうご覧になりましたか?

>真理といえる決定というものはそもそも存在するのでしょうか?
>例えば内定をもらった企業が2社あった。どちらかを選ばないといけない。
>A社に就職した。
>5年間は仕事がおもしろくて給料もよかった。でもバブルがはじけて
>不況になりついに倒産した。
>とすればその段階でA社に就職したことが謝った選択で
>B社に就職することが真理の選択といえるのでしょうか?
>真理というのはあるのでしょうか?
>真理は一つではない、また人の気持ちは変わるもの、
>これは私の常日頃の心情です。

核心を突いてきたって感じですね。釣りなら、ぐぐっと当たりが来た。
おっしゃる通りですよ。同感です。わたしの言いたいことの一つはそれなんですよ。誰も突いて来なければ、逆にわたしから問いを出さねばならないと思っていました。そして、その問いを投げかける相手は、多分KORNさんにするつもりでした。
だって、KORNさんはこう言っているのです。
>要するに最終的な決断は、神の手(くじ引き)にゆだねるという
>ことですか。でも私の好みから言えばやはり最終決断は人間の
>判断で行うほうが好きです。
つまり、以下のように質問するつもりでした。
三三「KORNさん、あなたは神に委ねるのでなく、あくまで自分が決めたいわけでしょう。ところであなたは自分の人生の幸不幸を左右する決定の内、何%位を自分で決めましたか。?」
KORN「さあ、80〜90%?自分の決定ではなく、親の決定も人間の決定に含めると、ほぼ100%。鉛筆倒したり、おみくじ引いたりなど有りませんからね。」
三三「つまり、望んでも自分ではどうにもならないことは最初から、決定から除外していませんか。決定の選択肢を、手の届くこと、可能な範囲に絞っているでしょう。」
KORN「そりゃ、当然でしょう。出来ることと出来ないことが有りますからね。出来ないことを望んで決定しても実現しないんだから、決定にならないでしょう。あなたの『良い決定』の定義に実現可能というのが有りましたかね。なけれ追加すべきじゃないですか。」
三三「分かりました、追加を考えましょう。ところでね。『結婚の真理』というのを聞いたこと有ります?。」
KORN「さあ、どんなのですか。」
三三「西田幾多郎だったか、西晋一郎だったか忘れましたが、哲学の演習のテキストにこんなのが有るんですよ。
『ある大学教授の前になかなか容姿も端麗で、優しく、ウィットにも富んだ女性が現れました。読書や音楽などの趣味も一致し、向うも好意を持っている。自分はこういう女性と結婚すべきだった。人生は一度しかない。自分が今の妻と結婚したというのは間違った選択ではなかったのか。しかし、この教授は考えました。もし、結婚相手を、相手が、美しいとか、賢いとか、金持ちだからとか、趣味が一致するとかで選んでいたら、結婚した後、もっと美しい人が現れたら、その人と結婚するのが正しいことではないか。もっと趣味が一致する人が現れたらどうする。そんな決定の仕方が正しい筈はない。結婚とは、この人を妻としてこの人に最も相応しい夫となることだと考え、この美しい夫人とはそれ以上親しくすることを控え、初めて出会ったときは美しいと思い恋をしたが、今は子育てなどで、所帯ずれして来ている妻をどれだけかえりみていただろうかと反省し、もう一度この妻に対して誠意を持って接しようと決めて相対した。すると、いままで、あまり顧みなかった夫が優しく接してくれるようになったと感じた妻も、再び若々しくなり、その家庭の平和は保たれた。これをどう思うか。』というのですよ。何だかな〜さんが出した就職選択問題と似ていませんか。
『A社に就職した。
>5年間は仕事がおもしろくて給料もよかった。でもバブルがはじけて
>不況になりついに倒産した。
>とすればその段階でA社に就職したことが謝った選択で
>B社に就職することが真理の選択といえるのでしょうか?』」
さて、KORNさんのお考えは?KORNさんにリレーします。

な〜さんからのコメント(1999年11月06日 23時34分01秒)
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な〜 です

三三さん
こんばんは。
21世紀の民主主義のスレッドは見せてていただきました。

で今の話ですが、
私がこの次続けようと思っていたことが何となく書いてあります。
ここはじっと我慢してKORNさんのご意見を伺いましょう。

KORNさんからのコメント(1999年11月07日 02時43分28秒)
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知らないうちに私の偽者がこのスレッドで三三さんと会話しているじゃないですか(笑)
しかしこの偽者、私と考え方が非常に似ているので見逃してあげましょう。
(三三さん、私の性格を良く把握しておられますね(笑))

>さて、KORNさんのお考えは?KORNさんにリレーします。

それではお答えしましょう。「決定」について議論するときに、この仮定はあまり意味がない
と思ってます。なぜなら、「人生は一度しかない。しかし決断(決定)は一度ではない」からです。
この就職の場合についてですが、もし就職前にしか「決定」の機会がなかったとすれば
確かに悔いの残る結果です。しかし現実においては「決定」の機会は無限にあるのです。

例えば、A社が倒産する前に「ひょっとしてこの会社ヤバイのではないか」と思ったら
その時点で「A社を辞めて他の会社に再就職する」という選択肢が現れるわけです。
ここで再び「決断」が要求されます。その結果C社に再就職し、C社がB社より良い会社
だったらその決断は正しかったことになりますし、例えC社が良くなかったとしても、
A社を辞める「決断」のとき、悩み考え抜いたことはその後の人生にプラスになるでしょう。
(何も決断せず、時の流れに身を任せた人が「あの時こうしておけば…」と悩むわけです)

「決断」を多く重ねた人ほど、その結果がたとえ失敗だったとしても後悔することは少ない。
そしてすぐに別の選択肢を考え、さらに決断し、より大きく成長していくと信じています。
これは企業なんかでも言えることです。伸びる企業は、経営者が常に多数の選択肢を用意し
毎日のように決断し行動することを繰り返しています。反対にその時の状況に流されるまま
経営者が何の決断もしない企業はすぐにつぶれます。

「決断できずに何もしないより、とにかく決断して行動した方が良い結果が出る」これが私の
基本的なスタンスです。だから私は「決断の手段」としての多数決を支持するしています。
自分1人で決定する場合でも私は心の中で「多数決」をします。つまりその時点で集められる
全ての情報を検討し、自分の中でYESが51%、NOが49%ならYESを選択しています。

あ、それから、偽者KORNが一つだけ私の考えと異なることを言ってますね。
>KORN「そりゃ、当然でしょう。出来ることと出来ないことが有りますからね。出来ないことを望んで決定しても実現しないんだから、決定にならないでしょう。あなたの『良い決定』の定義に実現可能というのが有りましたかね。なけれ追加すべきじゃないですか。」

そもそも「実現不可能」どうか人間には判断できないので
(というか判断するために「決定」が必要です)
この定義は必要ないと思います。

三三さんからのコメント(1999年11月08日 22時43分51秒)
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KORNさん こんばんは

KORNさんの偽者の登場、ちょっとわるふざけでしたかね。お気に障ったら、お許しください。毎日少しづつ、断片的に知るよりも、一度どこかで一括して知る方が、良く分かると思って、試みている内に悪乗りして、チョットネットにまで登場させてしまいました。
KORNさんにお答えいただいたので、わたしもな〜さんの質問に、お答えしましょう。
『A社に就職した。
>5年間は仕事がおもしろくて給料もよかった。でもバブルがはじけて
>不況になりついに倒産した。
>とすればその段階でA社に就職したことが謝った選択で
>B社に就職すること(しておったとすれば)が真理の選択といえるの
>でしょうか?』
三三「お答えします。『B社に就職しておくことが真理であった』とうようなことは有りません。その方が良かったかもしれないという迷いや、後悔はあるでしょう。しかし、B社に就職しておったとしても、自分が就職しておれば、B社が景気が悪かったかもしれないし、B社の景気が好かったとしても、B社では内部の競争が激しく、どこか遠くに飛ばされていたかもしれないし、激しい社内競争や、鬼の上司のとでにノイローゼになっていたかもしれないし、あるいは事故に遭っていたということもあるかもしれない。
人間は同時に二つの体験を体験する事は出来ない(KORNさんの「人生は一度しかない」という意味もこの事だと思うのです。)から、KORNさんの言う通り、わたしも「この仮定はあまり意味がない」と思います。従って、「あれか、これか。」を決定する事に多大なエネルギーを使うのか、あれでも、これでも、どちらでも良い。どちらを選んでも、障害があるだろう、要はそれらをどう乗り切るか、どう対応するか、苦しみを喜びにどのようにして変えるかの方が重要だと思っています。その意味で「どうでも良くはないが、どちらでも良い。」と言う場合も多々あると思っています。弱いと困難を恐れる、そうするとちょっとした決断でも、すごく恐れて迷う事になる。山中鹿之助のように「我に七難八苦をあたえたまえ」などとはよう祈りませんが、A社とB社のどちらを選んだからといって、人生が台無しになるとは思えません。しかし、悪事を行ったり、我欲に走ったりすることになると、ちょっと意味が違うように思います。そういうことを行うということも一つの決断でしょう。しかし、それはその後どこかで、後悔し、場合によっては罪を償うなどしなければ、社会的信用を失い、苦しむ事になる。たとえ一生罪が露見せず、外見的には富や名誉を得て幸福そうな人生に見えたとしても、本当がどうだったか。成功談を書こうとしても、最初どのようにして富を築いたか旧悪に関するところが書けない。社会的に成功すればするほど、注目される、そして「隠されたもので現れざるはなし」と聖書にも言う通り、いつか周囲が疑いを抱き、いつか嘘がばれる。すると、地位や名誉が高ければ高いほど恥辱を蒙る事になる。自分のことを何も話せない。どこからぼろが出て、露見するか分からないと思うからである。びくびくした、怒りっぽい人生、そんな一生がどうして楽しかろうか。大きな屋敷に住み、贅沢なごちそうを毎日食べる身分になったとしても心のお自由を失ってしまって何の楽しみが有る。昔の人が清貧を貴んだ所以であろう。
なにやら、説教めいた事になって申し訳ない。負け惜しみに聞こえるかもしれないが、わたしは自分が欲に目が眩む方が恐ろしい。わたしが言いたい事は「人が大きい方が欲しがったら、それをその人に取らせ自分は小さい方を取る。」としても、二つの選択のうち、どちらが徳をしたなどとは言えない。人間万事塞翁が馬である。ただそれを損をしたと思うかどうかである。経済的価値判断という一つの物差ししか持たなければ損をしたと思い、大きい方に拘らざるを得ない。
そして、多数決で決めるとき、大抵の人が経済的判断で物事を考える人だったとしよう、沢山の判断のすべての決定がそういう一つの尺度だけで判断され偏ってしまう。
本来、多数の優れた代表を選んだ段階では、皆、一人一人が異なって、赤や、黄色や、緑や、青や、白で美しかったのに、そして、議会で、そのいろいろな色が反映され、ある場合には赤い判断、ある場合には黄色い判断、ある場合には緑色の判断、、、、が期待されたのに、全部の色を合わせたいつもねずみ色の判断しか出てこなくなった。それが多数決ではないのか。何故籤の可能性を残せというか。時にはねずみ色党が遠慮して、他の色の党に譲ってもいいだろう。一つの決定が自分の思うようにならなかったとしても、何の面白くない事が有ろう。出てきた結果を不可抗力と考え、そういう自分の意図しなかった籤決の結果を大切にしていけば、思いがけない素晴らしい結果が生れるだろう。まあ、焼物でいうなら窯変てとこですかな。土も、温度も、完全に管理して焼いた茶碗は同じ物ばかりで、結局は大量生産されたことになり、有り触れた平凡なものでしかなくなる。
良心党は自分の心の思いに従って、1票を0.4と0.6に割ってAとBとに投票したのに、エゴ党は、党の圧力で皆1票を丸ごと、Aに投じたとしたら、1票を分割するという妙案も無意味になってしまう。
いくら制度を変えても、政治に関わる人間が変わらなければ結果は変わらないだろう。法律をどういじっても、法を守ったり、あるいは法の網目をくぐろうとする、人間、すなわちそこの住民の意識が変わらなければ結果は対して変わらないだろう。法の精神が良く理解され、「最大多数の最大幸福」などではなく、「一人はみんなのため、みんなは一人のため」という精神で行こうとするならば、法など要らぬのかもしれない。うん、「律法が有るから罪が有る。」とパウロが何やら意味ありげで、訳が分からぬ事を言っていると思っていたが、さてはこのことだったか。一つ勉強したような気がする。人に愛が有れば、法などないほうが良いということか。そうかもしれない。半分独り言のようになりましたが、以上を、な〜さんの問いに対するわたしの答えといたします。」



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