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投稿番号:41310 投稿日:1999年11月01日 23時38分52秒  パスワード
お名前:三三
 

21世紀の民主主義

キーワード:民主主義 21世紀 第3ミレニアム 議会 多数決

コメントの種類:提案


21世紀の民主主義

第一別館PRT2のスレッドで、21世紀の民主主義の具体案がある、とほのめかし、KORNさんが興味を持たれたようです。で、下関を熱く語ると言うテーマに適当かどうか分かりませんが、どこかでつながっていると考え思うところを述べます。第一別館の余命旦夕に迫っているような緊迫している状況で、その行方も見定めず別のテーマのスレッドを立てるのは、故意に議論をそらすようで、第一別館を慌てて取り壊して欲しくないわたしの本意ではないのですが、その方の議論も感情論が多かったり、コメントのコメントが多く、少し息抜きしつつ、じっくりと本質に迫れば良いと思いましたので、忘れられないうちに書いてみます。
KORNさん読んでね。

1.現代の民主主義――議会制と多数決
議会制と多数決が現代の民主主義です。いろいろ弊害が在るのは分かっていても、その弊害を改める方策が無く、あるいは、今のままの方が都合が良いと思う人が多いのか、18世紀の後半から広く世界で採用されるようになり、今日に到っているようです。
弊害、あるいは欠点は
1)最終決定は議会における議決と言う手続きで49対51でも多数の意見が採用され、少数意見は無視されることです。(数の論理)
2)多数決になじまないことがらを多数決で決定し、正しくない決定をしていることが多いと言うことです。
太陽が地球の周りを回るのではない、地球が太陽の周りを回っているのだと言う主張を、多数決で否決し、そういう意見を持つものを弾圧して意見を変えさせようとした例が在ります。多数決で否決しようとしまいと、それでも地球は回るのです。多数が間違っている例は枚挙に暇が在りません。そのように本来多数決で決めるのではなく、科学的に証明したり、論理的に推論して正しい結論を出すのが、正当なのに、そうせずに多数決に掛けるのは、数学の回答を計算で求めるのではなく、鉛筆を転がしたり、トランプで占うのと同じく愚かで、間違ったことだと思うのです。
この二つの欠点のため、議員には、正義の人を選ぶのではなく、地元利益誘導型の代表を送るという観念が頭を離れず、また議会では主義主張はそっちのけで多数派工作に終始し、選挙公約と異なる行動をとって平気と言う珍現象が、日常茶飯事になっています。
これらの欠点を正した新しい民主主義は、次の二つを導入します。
1)確率的決定 2)議事監査制度

1)確率的決定
多数決の結果が49対51なら、49対51の割合のくじを作ります。それを誰かが引いて、その結果に従うのです。その結果を尊重するのですが、たとえば、第一別館を残すと言う結果が出ても、それを、一年後にまた残すか壊すか、提案され、今度は壊すと言う結論になったとします。結論に従って壊されたとします。残すと言う行為は壊すと言うことを先送りする行為であるのに対し、撤去するという行為は非可逆の行為です。対等では在りません。従って残すと言う提案がなされたとき、少なくとも10年残すのか、永久に残すのか期限をつけて提案されねばなりません。また永久と言うものに対しては、たとえば、50年あるいは100年したら見直し提案できると言う一般的な規定も必要になるでしょう。
2)議事監査制度
三権分立に似ていますが、議会の議事が正しく妥当に進行したかを採決前に監査する制度です。
たとえば、1)で説明したように、第一別館を残すと言う提案が採決されようとしていれば、それには期限をつけるべきだと言う監査結果を出します。また、たとえば文化財審議委員会が文化財であり、残すべきであると言っているものを、市当局が、取り壊しの提案をしたり、議会が取り壊しを採決することの妥当性を論理的に監査します。数学や、物理学や、医学などの専門的知識が必要な問題は、その人たちの意見を尊重するのが議会の正しい在り方でしょう。どうように文化財と言うものも、そういう専門の人たちの意見を尊重すべきという監査意見を付して提案も採決も無効としてしまうかもしれません。

そんなことをすれば、何も決まらない。国政も市政もストップしてしまうと思うひとも居るかもしれません。最初は戸惑うでしょう、しかし、監査されることによって、議論が尽くされるようになるのでは在りませんか。ただ議論が尽くされるのではなく、論理的に到達可能な点迄は、論理的に到達すべきなのです。安易に採決して多数決で決定してはならないのです。賛成派も反対派も無い、協力して、こういう前提に立てばこういう結論になる、そして前提は正しいかを常に考え、出来るだけ採決しないで全体が一致する方向に結論を導くべきなのです。必ずしも最初賛成の意見を述べたので、最後までそれを通すという一貫性にこだわる必要は在りません。正しい論理に導かれた結論、それが市民にプラスなら、賛成、マイナスなら反対で良いのです。しかし、プラスかマイナスかは必ずしも経済的にプラスとかマイナスでなく、多くの場合、真実こそが長い目で見たらプラスと言うことが多いのです。ここでいう真実にはいろいろな意味が在るのですが。
そして最後に90対10、100対0になろうとも、あるいは500の議席があって、全会一致で可決されそうなときでもプラスワンのルールを採用して欲しいのです。それは今採決しようとする結論に待ったを掛ける一票です。その一票はジョーカーなのか、オールマイティなのか神様なのか、その一票を常に加えてくじを引くのです。それがくじで引かれたら不可抗力と考え、一定期間採決を延期し、第3の方法を探れというものと理解して、第3案の提案者を待つ謙虚さが要求されるのです。思い通りにならない、逆の結論でもそれを賢く乗り越える智恵が必要となるのです。そのような不可抗力が発生し、それを智恵で克服していくとき、その市、その国独自の特徴在る文化が生まれていくように思います。後になってその不可抗力の一票をくじで引いたことの不思議さと、そのことを良かったと思うようになるでしょう。
面白い?奇抜? ただ面白い、奇抜だけでしょうか。遠からず、どこかの国、どこかの町でこんな民主主義が行われていると言う便りを聞くように思っています。なぜならそれが理に適っており、正しいと思うからです。


AGPさんからのコメント(1999年11月02日 02時35分13秒)
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三三さん、「21世紀の民主主義」、楽しく読ませて頂きました。
第一別館の件では御期待に添えない結果となりましたが、いろいろなご提言に対し、心からお礼申し上げます。
さて、三三さんによれば現在の議会制民主主義では、

(1)数の論理で「少数意見」が無視される。(2)絶対真理が有るものでさえ、多数決で白黒を決める場合がある。
この2点が欠点だ、というご指摘。この解消の為に、

【1】賛成反対に対応した確率的結論を出す。【2】議決に対し、監査人を設置して判断を下す。
これが、21世紀型民主主義、と。


【1】は、現実に少数意見が却下されてた訳ですから、少数意見側の方達は、この改革案は大賛成でしょう。
例えば、毎年の下関市の予算案。過去4年を振り返って、ずーっと、36対4で可決されてましたから。
これがもし、36分の4、すなはち約11%の確率で「否決」されたら、新年度からの予算執行が出来ず、
市政は大混乱、4人からなるグループの方々は、自分達の主張が通って万々歳、でしょう。
こりゃー、ちと困ります。

【2】これは、議会の上に「雲上人」が存在するようなものです。あるいは、市政裁判官、か。
天は、人の上に人を作らず。 あ、それともこの雲上人は、別に選挙で選ぶのですか? それとも市長が任命?
ちなみに「三権分立」とも記述されましたが、これは今でも、違法な議決は当然司法判断によって訂正されます。
良い例が、先の日韓高速船に対する市の支出を不可とした一審判決、です。たとえ議会が認めてても、でした。
三三さんは、全ての分野に於いて、「裁判官」にご登場願おうと?


こう考えると、「多数決」というのは、決して非合理ではなく、「最大多数の最大幸福の実現」を図る為には、
やはり必要不可欠なプロセス、といえそうです。また、少数意見だからといって、決して「無視される」のではなく、
その審議の過程において、充分、意見を述べる事が出来るのも、少数意見を尊重する、議会の重要な仕組みです。

AGPさんからのコメント(1999年11月02日 02時40分44秒)
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>これがもし、36分の4、すなはち約11%の確率で「否決」されたら、

・・・間違いでした。「これがもし、40分の4、すなはち 10%の確率で・・・」に訂正して下さい。
(理系人間の、この僕が、なんという過ちを。)

遊び人の松っあんさんからのコメント(1999年11月02日 06時01分01秒)
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三三さん、はじめまして。

あなたの「民主主義」に対する熱き思いは良く解ります。
しかし、少し下の方にKORNさんが先に同じようなスレッドを起こされてますので、
そちらの方にRESを入れられるのが筋ではないでしょうか?
KORNさんのスレッドで議論が沸騰してあのスレッドが長くなっているのならともかく、
これでは先にスレッドを起こされたKORNさんが気の毒です。
人の気持ちを`思ん計る`のも、良い「民主主義」を創るのに大切な事のひとつじゃないでしょうか?

チャチャを入れて申し訳ありませんでした。

KORNさんからのコメント(1999年11月02日 06時51分25秒)
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松っあん、フォローありがとうございます。

私のスレッドは、以前書かれた三三さんの意見に触発された面もあるので、
こちらのスレッドにまとめても、私としては一向にかまいません。

しかし、私のスレッドにも既にコメントを寄せていただいている方が
いらっしゃるので・・・ちょっと今日1日様子を見てみます。

KORNさんからのコメント(1999年11月02日 18時58分14秒)
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三三さん、改めてじっくりとご意見拝見いたしました。

なかなか面白いですね。要するに最終的な決断は、神の手(くじ引き)にゆだねる
ということですか。でも私の好みから言えばやはり最終決断は人間の判断で行うほうが
好きです。

まあ、今回の第一別館問題のように、非常に微妙な判断を要求される場合には良いかも
しれません。しかし、次のような状況を仮定してみましょう。もし、現在下関の財政に余裕
があったとします。そうであれば第一別館の保存というのはかなりの支持を得られたはず
です。たぶん多数決を取れば「保存」に決定でしょう。

でもこの時、三三さんのおっしゃるくじ引きで、「第一別館は解体する」という“ジョーカー”
を引いてしまったらどうします?三三さんは納得できますか?

そのような場合はくじ引きしないと言うのであれば、どのような場合くじ引きするのでしょうか?
また、それは誰が決めるのでしょうか?

・・・結局誰かが「決断」しなければならないのです。

よって、私の結論は次の通りです。
「多数決は完璧な制度ではない。しかし、人類の発明した意思決定の手段としては、現在最も合理的な方法である」

多数決が悪いわけではないのです。問題はそこに至るプロセスではないでしょうか。
そのあたりの考察については私のスレッドで述べたいと思います。
興味のある方は覗いてみて下さい。

三三さんからのコメント(1999年11月03日 01時09分37秒)
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KORNさん
あなたが民主主義について一足(2時間ほど先に)、スレッドを立てられたのを知らずに、以前のあなたの勧めで立ててしまいました。松っあんの指摘で気づきました。ごめんなさい。しかし、並行して存在しても良いと思います。一つは「21世紀の民主主義」として具体案を明示していますから、それについて絞られた議論がされるでしょう。一つは「民主主義とは何か」で日本の民主主義についてKORNさんが抱く違和感を語ろうとしています。その前提として、居酒屋スタイルで気楽に皆さんががどう思っているか問うて居られます。二つのスレッドをウォッチしなければならない不便さは在りますが、面白いのでは在りませんか。二つが交錯するかもしれませんが、重複を避けるため、どちらかに乗せたコメントは他方でも有効とみなして議論を進めるよう提案します。OK?
KORNさんが、やおら違和感を語り出すのを、今やおそしと固唾を飲んで見守っております。まだお酒の入り方が足りませんかな。

AGPさん
第一別館の件期待できませんか、残念ですね。いろいろ提言有り難う?とんでもない、ご丁寧なお言葉いたみいります。わたしは、何故か金子みすずも残念がっているような気がしてなりません。金子みすずが最初に詩を作った碑が、第一別館のすぐ近くに在りますね。みすずが下関に出て来て、本屋に勤め出した時と、第一別館が出来た頃が一致しています。恐らく着工から見ていただろうと思います。金子みすずがどういう思いを持って、モダンな建物ができ、そこにさっそうとモガ(私注、モダンガールの略。大正時代にはモガとか、モボ=モダンボーイと呼んだ。これはAGPさんにコメントしたのでは在りません。勿論ですとも。もしや若い人が読んだらぴんと来ないだろうと思って。)が出入りするのを見ただろうかと思うだけでロマンチックなわたしは胸が熱くなります。期待できませんか、ほんとにほんとに残念。誰かがそれを研究して学位論文にするまで、何とか待ってもらえませんかねえ。ほんとに残念ですわい。

ま、それはそれとして、お忙しいでしょうに、さっそく「21世紀の民主主義」読んでいただきコメントまでしていただいて有り難うございます。

>【1】は、現実に少数意見が却下されてた訳ですから、少数意見側の方達は、この改革案は大賛成でしょう。例えば、毎年の下関市の予算案。過去4年を振り返って、ずーっと、36対4で可決されてましたから。これがもし、40分の4、すなはち約10%の確率で「否決」されたら、新年度からの予算執行が出来ず、市政は大混乱、4人からなるグループの方々は、自分達の主張が通って万々歳、でしょう。
こりゃー、ちと困ります。

いや、ご心配ごもっとも、現在の議会に早速当てはめて考え、予算が通らなければ市政は大混乱するとおっしゃるのでね。よーく分かります。しかし、だからこの案はダメというのは論理が飛躍していませんか。ちょっと議事監査役に相談してみましょう。
議事監査役「市当局が提出した予算案が、採決されるときには、反対者は、反対部分を明確にし、それについては対案を用意しなければなりません。くじ引きの結果原案が否決され対案が可決されたときは、改正部分については改正案提案者が相当の責任を負います。従ってその部分の予算の執行に当たっては、改正案提案者に十分相談し、その意を組んで執行しなければなりません。」
4人の反対者、市税をゼロにせよとか、職員の給料をゼロにせよとか、そんな無責任な改正要求を出す心配が在りますか?そうでなければ、思い切って覚悟してその改正案で行ってみてはどうですか。市当局が前年の何%増または減位で考える代わり映えのしない予算案からは、思い切った改革など出て来はしないでしょう。10年に一度くらい野党案の予算でやってみたっていいでしょう。悪ければ次の選挙で与党の信頼が増すでしょう。4人と言えども、その影にはそれだけの市民が居るのです。一緒に一つ市に暮らさねばならないのです。10回に一回くらい彼等の意見が聞き入れられるのは当然でしょう。
沖縄の基地の問題を考えてみましょう。日本にある米軍基地の総面積の75%が沖縄に在ると聞いています。本土のどの県も基地が来ることに反対ですから、各代議士が地元利益誘導型の発想しかしなければ、沖縄の人たちは永久に基地を提供し続けなければなりません。もし山口県にそれだけの基地が在ったらどうします。平和的手段で、国会に訴えても訴えても、多数決で否決され不公平は是正されません。希望が全く無いのです。長州や薩摩なら独立運動でも起こし兼ねなかったでしょう。
こんな不公平な状態を長く続けることは、本土のわれわれの恥ではないですか。せめて47分の1の確立であっても、その重い負担から逃れる希望が在って当然ではないでしょうか。その47分の1の確立が起こった場合を想定して、日頃からもっと公平な負担をするように自ら負うべき責任を負うべきではないでしょうか。これは特にAGPさんに言っているのでは在りませんよ。被害妄想にならないでください。いろいろな問題をみんなで考えようと呼びかけているのです。

これからはちょっとAGPさんのコメントに
Q1.「最大多数の最大幸福の実現」のためには少数者が犠牲になってもよいのでしょうか。
いやいや、そんなことはおっしゃっていませんでしたね。しかし、失礼ですが、念の為にお聞かせください。論点を明確にするために必要なので。
Q2.>「最大多数の最大幸福の実現」を図る為には、「多数決」というのは、決して非合理ではなく、やはり必要不可欠なプロセス、といえそうです。また現在でも少数意見だからといって、決して「無視される」のではなく、その審議の過程において、充分、意見を述べる事が出来るのも、少数意見を尊重する、議会の重要な仕組みです。
AGPさんは、現在の「多数決」を礼讃しておられるのですか?それとも、「多数決」で決めることもやむを得ないという消極的肯定論ですか。
Q2.>1)数の論理で「少数意見」が無視される。(2)絶対真理が有るものでさえ、多数決で白黒を決める場合がある。この2点が欠点だ、というご指摘と、わたしの考えを纏めていただきましたが、
で、AGPさんは、この2点の欠点があることには、同意されたのですか。それとも欠点などないとおっしゃるのですか。それをちょっとお伺いしてから、続きはコメントいたしたく。夜も更けて参りました。今宵はここまでに致しとうござりまする。
グーナイ

コメントしようとしたら、KORNさんのコメントがありました。KORNさんのスレッドも見ました。コメントしたいこと沢山浮かびましたが、次の機会にさせていただきます。

AGPさんからのコメント(1999年11月03日 03時51分27秒)
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>Q1.「最大多数の最大幸福の実現」のためには少数者が犠牲になってもよいのでしょうか。
>Q2.AGPさんは、現在の「多数決」を礼讃しておられるのですか?それとも、「多数決」で決めることも
やむを得ないという消極的肯定論ですか。
>Q3.で、AGPさんは、この2点の欠点があることには、同意されたのですか。
それとも欠点などないとおっしゃるのですか。


・・・Q1.「少数者が犠牲」というと悲惨な響きですが、意見が聞き入れられない、実現しない、という点では、
少数者から見たら「俺達が犠牲になった」と捉えられるでしょうね。

Q2.「多数決」に対し、消極的肯定をする時が有ります。ただしそれは、ひょっとしたら三三さんの考える意味とは
違う意味で(たぶん)。 (つまり、少数者が犠牲になるからいけない、というのではなく。)
どうしても、議題によっては衆愚政治になる場合も出てくるからです。ただ、それも時の民意だ、と思い、従いますが。

Q3.現在が「少数意見が無視される」という事ではない、と考えます。
また、今日ではさすがに「絶対真理」は、各々の専門分野の有識者により決定されます。天動説か地動説かを議会で
決める事は、今はしません。だから(2)も、今日の「多数決原理の欠点」と断定し難いのではないでしょうか?

三三さんからのコメント(1999年11月03日 15時48分35秒)
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KORNさん、昨夜は失礼しました。
さて、並行ということで意見一致ですね。そうしましょう。

>最終的な決断は、神の手(くじ引き)にゆだねるということですか。
>でも私の好みから言えばやはり最終決断は人間の判断で行うほうが好きです。
人間の判断で行う方がお好きすか。それは
1)「神」に対する「人間」ですか。
2)占いに委ねる「非合理性」に対する「合理性」(人間)ですか。
3)また人間の判断と言えば、他人の判断も入ります。「自分の判断、自分と同じ考えを持った人(人間)の判断で行うほうが好きです。」と言うこととは違いますか。これはわたしが普段、無意識に思っていることです。それが証拠に、良い(優れた)考えだと思ってやっているのに、「もっと良い考えが沢山在るではありませんか。」などと、意見されようものなら、親しい間柄であっても怒ってしまいます。そのあとは意固地になって、何を言われても自分の我を通したくなってしまいます。わたしの内面にそういうものがあるのでここで揚げておきました。
さて、KORNさんはどれですか。どれに一番近いですか。?それを伺ってからコメントをつづけましょう。でないと、あなたの考えでもないものに、いくつものケースに分けて、一つ一つ反論したりして、貴重なスペースを無駄にしたり、独占したりしたくありませんから。

つぎに
>まあ、今回の第一別館問題のように、非常に微妙な判断を要求される場合には良いかも>しれません。しかし、次のような状況を仮定してみましょう。もし、現在下関の財政に>余裕があったとします。そうであれば第一別館の保存というのはかなりの支持を得られ>たはずです。たぶん多数決を取れば「保存」に決定でしょう。
え、「たぶん多数決を取れば「保存」に決定でしょう。」、ほんと?
仮定ではあっても、何だか、希望の灯が見えて、心がぱっと明るくなったような気がします。ということは、36対4でも36の人の心の中には、残したい気もあると言うわけですね。実はわたしもそうではないかと思っていたのです。で、財政に余裕が無いと言われて仕方なく賛成に。
ここまで、いいですか?
これは非常に重要な点です。でも解体が可決されたのは7、8年前でしょう。?その頃も財政逼迫していたのですか。今回は、それを執行するため、その解体予算を計上するかしないかだったのではないですか。
でも、あなたは財政に余裕が在ればとおっしゃるのですから、それを信じて議論を先に進めましょう。
議事監査役Aなら、「『財政に余裕がないから、第一別館は解体されねばならない。』という判断が成り立つためには、論理学の『理由の原理』により『財政に余裕がないならば、第一別館は解体されねばならない。』という仮言判断か明白に成立していなければなりません。平ったく言えば、たとえば『財政に余裕がないならば、すべての文化財は解体されねばならない』という仮言判断と、『同一の原理』による『第一別館は文化財である。』という判断が成立していなければなりません。」というでしょう。
この議事監査役Aさんも制度が新しいので、どういう風に職務を遂行していけば良いのか、試行錯誤中で少し心細いので、議事監査役候補Bさんとか、議事監査役候補Cさんとか名のって、どこか大学の論理学の教授などにも参加して欲しいですね。そして論理学に関する質問など出たら、それにも答えていただいたりして。なにしろ議事監査役Aさんはアリストテレスなどの、古典的な論理学のうろ覚えなので、用語なども当代では違っているのじゃないかと不安を抱いているようです。しかし、原理は真理だから、何千年経とうが変わる筈がないと、意気だけは軒昂です。
で、そう指摘されると、議論が先に進むのです。監査役には引っ込んで貰ってて勝手に議論をします。
財政に余裕がなければ、市当局をそれに見合った体制にしなければなりません。市民のために外に向かって使われる建設や、福祉などの事業予算(どんな名称で呼んでいるのですか?)と、主として市の職員や、議員などの給与や、手当に当てられるような人件費(経常費?、固定費?)を削減しなければなりません。
たとえば、外に向かって使う事業費がどんどん削られて、半分になったとしましょう。事業費が半分になれば、その部署の人員も半分になっていい筈だと考えるのですよ。半分の人員が適当かどうかは別としても、執行する予算がなければ人員もほとんどゼロでいい筈です。
市役所は市民のために存在するという根本を考えるなら、集めた税金を出来るだけ市民のために使うのでなければなりません。それが人件費に消えてしまって、市民に帰ってこないのなら市役所の存在価値はないことになります。むしろ事業費を必死で減らさないように守り、人件費を削減すべきででしょう。
極めて明快な結論だと思います。良いリーダーなら、税収が伸びたときにも人件費を自重して伸ばさないでしょう。普通のリーダーなら、落ち込むと予想が出来たときにその対策をただちに始めるでしょう。
企業ならそうします。そうしなかったら潰れて首を切られなくても、会社倒産とともに皆失業してしまうでしょう。企業が潰れそうなとき、従業員の待遇は実際どんなになっているでしょう。給料20%カット、夏冬ボーナスなし、年末に餅代として社長のポケットマネーから2万円だったか5万円だったか出ただけです。
普通年間賞与が5ヶ月あったとして考えると。
(12×0.8)/17=9.6/17=0.564 → 56.4% です。
普段たっぷり貰っていたのではありません。56.4%になったとき大企業の課長さんが生活保護を受給できる資格が出来てしまったのです。これが2年間続きました。それで2年後に元に戻ったのでは在りません。カットが緩和されただけで、その前後、何度カットがあったことでしょう。こういうことが銀行から派遣された役員によって遂行されたのです。今銀行が潰れそうになって、国から超多額の援助を貰いながら、行員の給料は、生活保護受給資格が生ずるほど下がっているのだろうかと思います。そういう目を味わってみるのもいいものですよ。中小企業の人たちの苦しみが少しは分かるようになるでしょう。
自分の周囲にも、兄弟や知人でそういう体験をしている人が沢山居るでしょうから、分かろうとする人は分かっておられるでしょうが。
従業員の首を切らず、設備を売って給料に当てたとしても、収入がなければ首を切らねばならないのは必定です。
会社が残って、従業員が一人も居なくなったとして、なんの意味が在ろう、従業員あっての会社ではないかと言う人も居るでしょう。しかし、従業員を抱えたまま倒産すれば、借金が返済できなくなり多くの人に迷惑を掛けることになるのです。つまりその人たちの金で只で食わせてもらっていた。只で贅沢さて貰っていたことになるのです。
ちょっと例を披露しようとしたのに、つい多弁になってしまいました。
現実をもっと直視したら、しなければならないことが何なのか分かってくるものです。市役所の方が皆リストラに反対とは思っていません。多くの方が何をしなければならないか分かっておられると思うからです。企業でもそうです、去るも地獄、残るも地獄という覚悟は必要です。しかし、勇気をもって決断して正しい道を歩み出せば、何と世間は暖かいものでしょう。それを知る機会があった自分は本当に幸せだと思っています。
ニュージーランドなど、公務員の70%を削減したと聞いたことが在るような気がします。30%削減でもびっくりするのに、70%削減したと聞いて驚いたので良く覚えています。
企業では、本社ビルを新築すると社運が傾くと言って、本社ビルを古いままでいたり、中には古い木造の小学校の校舎を払い下げて貰って本社事務所にしているものも在りました。
金がないのなら、みすぼらしかろうがなんであろうが雨露がしのげれば御の字ではないでしょうか、水道課でも介護センターでも事務所として使ったらよいではありませんか。きっと市民も、職員が本気で行政改革に取り組んでいると理解してくれるでしょう。

>でもこの時、三三さんのおっしゃるくじ引きで、「第一別館は解体する」という“ジョ>ーカー”を引いてしまったらどうします?三三さんは納得できますか?
勿論納得します。わたしはそういう結果になったらそれを、不可抗力と考えよと提言しました。人間が決めたと思うから腹が立つのです。怨みが残るのです。
みんなが残したいと思っても、地震や、火災や、水害などの天災で失ったとき、幾ら納得できないと言ってもどうにもなりません。失ったと言う現実を受け入れて、そこからベストを考えていくしかありません。
籤というのは、それほど恥ずかしいものでは在りません。兄弟で切り分けたまんじゅうを分けるとき、あみだ籤を引いて文句の出ないようにするでは在りませんか。一応どれが当たっても仕方がないと、籤にすることに合意すれば結果を神聖なものとして受け入れねばなりません。
わたしは、日本でも、古くは亀の甲の割れ方を見て、どの地方、どの地域に、国の施設を作るか、灌漑などの工事を、どちらを先に完成させるかなど、決めたと思っています。頼母子講をするのもそうでしょう。
そのくじをごまかしたり、いかさまサイコロを使ったり、わけの分からない神託を受けて自分に都合の良い解釈を巫女にさせるなどの人間の智恵を働かせるから可笑しくなるのです。そうでなければ籤で決めると言うやり方は至極公平で皆が仲良く居られる方法だと思います。祭政一致の原点でしょう。籤を引くとき、結果を神聖なものとして尊重するため、日本でもギリシャやローマや、エジプトでも神殿で行われたのではないかと思います。

>よって、私の結論は次の通りです。「多数決は完璧な制度ではない。しかし、人類の発明した意思決定の手段としては、現在最も合理的な方法である」

多数決は完璧な制度ではない。と言われたことを心に留めておきましょう。
その他はあなたのスレッドでコメントしましょう。

な〜さんからのコメント(1999年11月03日 21時03分55秒)
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な〜 です。

難しくてよくわからないので、質問です。

例えば議員100人にいて99人は日本は軍隊を持たないと言い
一人が核を持って軍隊を持つんだ、と提案したとしましょう。
どんなに議論を重ねてもその一人は自分の持論を曲げずに
核武装することを貫いたとしましょう。
政策決定に当たり偶然その一つのカードを引いて核武装が閣議決定されたら
どうするのでしょうか?
なんかとんでもない独裁者を生み出す危険性を感じるのですが。

KORNさんからのコメント(1999年11月03日 22時07分00秒)
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な〜さんとはテレパシーが通じてるみたいだ!
実は私もその「仮定」をしてみようかと思ってたんです。
(話を分かりやすくするため、「第一別館」にしたのですが)

三三さん、こんばんは。
>人間の判断で行う方がお好きすか。それは
>1)「神」に対する「人間」ですか。
>2)占いに委ねる「非合理性」に対する「合理性」(人間)ですか。
>3)また人間の判断と言えば、他人の判断も入ります。「自分の判断、自分と同じ考えを>持った人(人間)の判断で行うほうが好きです。」

1)「神」に対する「人間」、これになると思います。非合理的で様々な個性・意見を持ち
様々な長所・短所を持つ「人間」のことです。これら人間が限られた時間で徹底的に議論
した結果の「多数決」であれば、私はそれに従います。

人間の決めることですから完璧は有り得ない。長い目で見て失敗だったこともあるでしょう。
しかし、それを繰り返すことで人間は少しずつ学び少しずつ進歩して行く、そう信じたい。
しかし、日本では徹底的に議論することをせず、100%の賛成に近づけるために「根回し」
をします。これが日本で民主主義がうまく機能しない原因になっていると考えます。

>え、「たぶん多数決を取れば「保存」に決定でしょう。」、ほんと?

大変申し訳ない。これは私の単なる「仮定」です。根拠はありません。
>でもこの時、三三さんのおっしゃるくじ引きで、「第一別館は解体する」という“ジョーカー”を引いてしまったらどうします?
この質問を出すための言葉です。まさかあれだけ大量のレスを書かれるとは…
でも興味深く読ませていただきました。

私が聞きたかったのは、くじ引きで自分の望まない結果が出たときそれに従えますか?
ということだったのです。三三さんは従えるのですね。なるほど。
というのも、私だったら「くじ引き」に従うのは絶対イヤだからです。私は徹底的に議論
した結果の「多数決」の方が納得できます。しかしこれは最初に述べた通り、好みの問題
でしょう。「キリストを信じるか、ブッダを信じるか」と同じで答えは出ないと思います。

三三さんからのコメント(1999年11月04日 00時47分35秒)
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な〜さん こんばんは。早速本題に入ります。
>例えば議員100人にいて99人は日本は軍隊を持たないと言い
>一人が核を持って軍隊を持つんだ、と提案したとしましょう。
>どんなに議論を重ねてもその一人は自分の持論を曲げずに
>核武装することを貫いたとしましょう。
>政策決定に当たり偶然その一つのカードを引いて核武装が閣議決定されたら
>どうするのでしょうか?


閣議決定される?
99人派が与党で、その与党が再軍備反対論者なのに、どうして核武装を閣議決定するのですか。?

閣議ではなく、国会で核武装が議決される心配が在ると解釈して話を進めます。
議案は、政府が提案するものと議員が提案するものが在るでしょう。99人派ががそんな議案を提出する筈はありませんから、一人派が提出するでしょう。
一人では議案を提出する権利もないかもしれません。しかし、それも在ったとして、次は審議順位を決めることになります。一人しか賛成者の居ない議案が優先して議論される筈は在りません。与党側が心配するなら、議案数だけでも、一人一案提案して、一人派の提案の審議を遅らせたり、廃案にしてしまう方法をとるでしょう。しかし、そういう防御策を取らなかったとしても、また与党側がよほど少数派に寛大であったとしても、再軍備するかしないか位の議案も抜きにして、一足飛びに核武装議案が審議されることはないでしょう。たった一段階、余計に籤決が入るだけで、確立は100分の1から10000分の1になります。
しかし、与党側が、よほど、心配しなかったか、核武装しても良いと思ったか、ついに採決と籤に委ねられ核武装が決定したとします。
次は、予算です。核武装の規模をどうするのですか。与党側が真剣に核武装したくなければ、予算を計上しないでしょう。それでは、籤決の結果を神聖なものとして、尊重していないと言うなら、一番小さい核弾頭を一個だけ購入するというような予算を計上するでしょう。
その結果、日本は核武装しました。
周辺諸国は日本が核武装したことに強い警戒を示すでしょうか。
それとも、日本が法を遵守し、また少数派の意見の尊重と、籤決という制度を持つ国の在り方としては、次善の策として、核弾頭一つに抑えたことのなかに、政府の核武装反対の意思を明確に見て、かえって良識を評価し、信頼を増すかもしれません。
周辺諸国が恐いのは一人の核武装論者でなく、多数派が核武装論者になることです。あるいは核武装論者が多数派になることです。

独裁者は一人で現れるものでは在りません。独裁者を支持する、強力な協力者、多くの場合、軍隊の支持を得ていなければならないと思います。そして或時期、民衆に熱烈に支持されて生れるのではないでしょうか。多数決で当選しても、籤決で当選しても、トップの座に座った後、自己と自己の一派に都合が良いように制度をいじり、権力を集中し始めたら、要警戒でしょう。

>なんかとんでもない独裁者を生み出す危険性を感じるのですが。
おれを国王にせよと言う議案を提出して、それが可決される可能性が在ると言うのでしょうか。
選挙民はどうしてそう言いう人を選出したのですか。その国では議会制と多数決プラス籤決制を定めた憲法に違反した決議でも有効なのですか。それほど、国民も、議員も愚かであるならばそれは、独裁制になった方が良いと言う神の思し召しが在ったのかもしれませんね。

籤というのは権利を公平にするためのもです。一人頭幾等と計算できる分配は、籤の必要はないでしょう。たとえば遺産を分配するとき、金なら、当分に割れば文句はないでしょう。しかし、おまえは家を取れ、おれはこちらの土地を貰う。などと言う話になると、ややこしくなります。最初家の方が良いと思っていても、土地を彼が欲しがるのは、あの土地の方が値打ちが在ることを知っているのではないか、などと、隣の芝生が奇麗に見えて、迷うばかりで決められない。あるいはA町とB町に橋を作ろうとしても、一度に架ける予算はない。多数決で決めればいつもA町が勝つ、そういうことは籤決が良いのでは在りませんか。

第一別館も、多数決では36対4かもしれませんが、一票を割れるものなら、一人一人の心の中は、解体派が内心は解体0.6、温存0.4.温存派が解体0.4、温存0.6かもしれません。すると、解体は36×0.6+4×0.4=23.2 温存は36−23.2=12.8
36対4でなく、23.2対12.8です。
どうしてyes か no の一票でなければならないのでしょう。 分からない、どちらでもよい、のあいまい票もあっても良いのでは在りませんか。それが多数派工作に歪められ、自分の意志とは関係なく、全力で誰かに協力する形で投票するときは常に1になるのでしょう。

夜も更けてまいりました。今宵は、ここまでに居たしとうございます。
AGPさん、KORNさん、次の機会にさせてください。

ヤントさんからのコメント(1999年11月04日 03時57分33秒)
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「多数決は完璧な制度ではない。しかし、人類の発明した意思決定の手段としては、現在最も合理的な方法である」
多数決が悪いわけではないのです。問題はそこに至るプロセスではないでしょうか。

・・・・kORNさんへ。(のみならず、皆さまへ。楽しく拝見していています)。
    多数決っていうのを考える時、気になるのは、ソクラテスを処刑したのも多数決だという事実です。
    民主主義の故郷、ギリシャ、ですらです。こう考える時、多数決っていうのは、大きな原罪をおっ
    っているというか、根源的・原理的な欠陥をもちうる制度だと、少なくとも、警戒的にみた方が
    いいのではないでしょうか?。あるいは、利用できる範囲があまり広くないというか。
    私は、そう思っているのですが・・・・?どう思われますか。

    この問題は、むかしの話だけでは、ありません。例えば、日本の憲法(特に9条)、
    どうするか・・・などという、問題含みます。
    

な〜さんからのコメント(1999年11月04日 20時23分24秒)
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な〜  です

そうです。閣議決定ではありませんでした。
申し訳ありません。

で、さらにコメントを呼んでも難しくてわからないのですが、
どうしても籤というのは???

偶然が重なると言うことも確率的にあるわけで
宝くじだって確率が0に近いのに必ず誰かが1等を当てます。

なんか直感的に納得できないものを感じるのですが。

KORNさんからのコメント(1999年11月04日 22時51分31秒)
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つまりですね、三三さん
「民主主義は最悪の場合、49%が切り捨てられる。だから完璧な制度ではない。」
この点については同意見です。しかし同じ論法で言えば、
「三三さんの方式では最悪の場合、99%が切り捨てられる。だから多数決の方がより合理的」
といえるのではないでしょうか。私の(多分な〜さんも?)言いたいことはそういうことです。

私も従来の民主主義に代わる21世紀の民主主義について考えてみたのですが、
なかなか思いつきません(思いついたらノーベル賞だ!?)
しかし人類の歴史上、先例が無い訳ではないのです。
それは共和制時代のローマです。

民主主義は「多数決」の前に十分な審議を重ねるため、どうしても意思決定が遅くなります。
平和で何もない時なら問題無いのですが、非常事態の時…そうですね、例えば経済がどん底に
落ち込んで今すぐ何か手を打たなければならない時や、戦争を仕掛けられた時などの場合
意思決定の遅さは致命的です。(敵が攻めてきたとき憲法改正の議論をしてもねえ…)

反対に「君主制」は意思決定は早い(これが最大の長所です)が、長期に続くと腐敗しやすい
という欠点があります。この「君主制」と「民主制」の良いところを融合できないものか…?

この2つを上手い具合に融合させたのが共和制時代のローマなのです。
この時代のローマは基本的には民主制(しかも今の日本なんかより遥かにレベルが高かった!)
だったのですが、非常時には議会が2年の任期で独裁者(独裁執政官)を選出しました。
そしてその期間は議会を通さず、その独裁者が問題解決のための意思決定を全て行ったのです。

もちろんこれは全国民が政治に対して意識が高く、高いレベルの民主制を実現していたローマ
だからこそ可能だった制度です。今の日本が真似したら、その独裁者は好き勝手なことを
やらかしてしまうでしょう。たぶん無理です。

しかし我々と同じ「人間」がかつてその制度を実現していた、という事実に私は希望を
感じるのです。ローマ人に出来て日本人に出来ないわけがない。
ひょっとしたら21世紀には実現できるかも?しれません。
そのためには国民1人1人がもっと政治に興味を持つ必要がありますね。
(まだまだ道は険しい…)

KORNさんからのコメント(1999年11月04日 23時35分01秒)
           パスワード

ヤントさん、はじめまして。

>利用できる範囲があまり広くないというか。
>私は、そう思っているのですが・・・・?どう思われますか。

そうですね、私も多数決はあくまで「意思決定の手段」だと考えています。
議論を重ね、これ以上どうしようもないくらい悩んだうえで、それでも
決断しなければならない時に用いる手段だと思います。

だから徹底的に議論せずに実施した「多数決」はあまり有効ではありません。

KORNさんからのコメント(1999年11月05日 00時10分01秒)
 

本人によりコメントは削除されました。 1999年11月05日 00時22分18秒

KORNさんからのコメント(1999年11月05日 00時27分25秒)
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>第一別館も、多数決では36対4かもしれませんが、一票を割れるものなら、一人一人の心の中は、解体派が内心は解体0.6、温存0.4.温存派が解体0.4、温存0.6かもしれません。すると、解体は36×0.6+4×0.4=23.2 温存は36−23.2=12.8
36対4でなく、23.2対12.8です。

ちなみにこれは「多数決の原理」で十分解決可能ですよ。おしゃる通り一票を割れば良いのです。
つまり一票をさらに10等分して“解体派が内心は解体0.6、温存0.4”ならば
1人が「解体0.6、温存0.4」票入れるようにすれば良いのです。
まあ、結局のところ、YESかNOを決定するための手段なので、
私は1人1票の「多数決」でもかまいませんが。
(ひとり10票の方がYESかNOの度合いがより詳しくわかりますけどね)

三三さんからのコメント(1999年11月06日 01時22分40秒)
           パスワード

GPさんこんばんは
Chotto Yaboyoude 一日パスしました。失礼しました。
さて、お答えいただいたので続けましょう。AGPさんは忙しくてお時間がないでしょうから、気の毒です。長い文章書かれても、斜め読みしか出来ないでしょうし、その中で質問みたいなのが在れば、前後は読まないで答えるしかなかったりでしょう。でも、まじめに答えていただいて嬉しいですよ。お礼言います。

>Q1.「少数者が犠牲」というと悲惨な響きですが、意見が聞き入れられない、
>実現しない、という点では、少数者から見たら「俺達が犠牲になった」と
>捉えられるでしょうね。

つまり少数者から見たら犠牲だが、AGPさんが多数の立場にあるときは、多数決の当然の帰結で犠牲ではないのだと言うことですね。

>Q2.「多数決」に対し、消極的肯定をする時が有ります。ただしそれは、
>ひょっとしたら三三さんの考える意味とは違う意味で(たぶん)。
>(つまり、少数者が犠牲になるからいけない、というのではなく。)
>どうしても、議題によっては衆愚政治になる場合も出てくるからです。
>ただ、それも時の民意だ、と思い、従いますが。

なるほど。で、このときのAGPさんの立場は少数側にあって、自分達の意見は通らなかったが、衆愚に従うのもやむをえないということですすね。


三つのQにお答えいただいたのは、現在の民主主義にに欠点はない、満足しているとおっしゃるのか。欠点は在るが、それ以上の案はないと思うのでやむをえないと思っておられるのかをはっきりしたかったのです。
満足しているとおっしゃるのなら、いろいろ欠点の例を挙げて、それで何故欠陥がないと言えるのかを争点としなければならないし、或程度欠点を認めてあるのなら、議論は一歩先に進めて、長所を残しながら、欠点を改める案が在るかどうかを論ずることになると思ったのです。

Q1、Q2の答えから判断すると、かなり満足度が高いと言わざるを得ません。自分が少数側に立ったときは意見が通らなくても、我慢するのだから、他の人も少数側で意見が通らなかったとしても我慢すべきだ。と言ってあるように思えます。それだけをみると、一見公平に聞こえます。
しかし、沖縄に集中する基地の問題をどう考えますか。多数のエゴだとは考えないで、多数決だから不公平はない、とおっしゃるのですか。それだと、いじめが起こったとき、いじめる側が多数だから、多数決で正義だと言うことになりませんか。
「最大多数の最大幸福の実現」という言葉は、最大多数からもれた人たちは不幸になっても仕方がないだろう、どうせみんなを満足させることは出来ないのだからと言っているように思えます。本当の政治は、如何にして多数派になるかではなく、いかにして多数派からもれた人たちをも含めて公平に扱うかではないでしょうか。

きっと「第一別館の採決を籤決にせよ」とわたしが主張していると思われるので今はこの点にこれ以上拘らないことにします。Q3に行きましょう。

Q3がらみ.
>現在が「少数意見が無視される」という事ではない、と考えます。
>また、今日ではさすがに「絶対真理」は、各々の専門分野の有識者により
>決定されます。天動説か地動説かを議会で決める事は、今はしません。
>だから(2)も、今日の「多数決原理の欠点」と断定し難いのではない
>でしょうか?
ほんとにそうおもっておられるのですか。?
恐らくガリレイを裁いた宗教裁判でも、裁く側は絶対真理を審理しているなどと言う意識は全くなかったと思いますよ。それどころか、愚にもつかんことを言って神を冒涜してる、正義は自分達に在ると思い込んで疑いもしなかったでしょう。
この点、民主主義って何だろうの、「しゅうちゃんさんからのコメント(1999年11月05日 02時35分22秒)」で裁判に誤判はつきものといっている法律屋さんたちは、己を知って自戒しておられる、そんなら信用しようと言う気になります。
また、ヤントさんからのコメント(1999年11月04日 03時57分33秒)
>kORNさんへ。(のみならず、皆さまへ。楽しく拝見していています)。
>多数決っていうのを考える時、気になるのは、ソクラテスを処刑した
>のも多数決だという事実です。民主主義の故郷、ギリシャ、ですらです。
>こう考える時、多数決っていうのは、大きな原罪をおっているというか、
>根源的・原理的な欠陥をもちうる制度だと、少なくとも、警戒的にみた方が
>いいのではないでしょうか?。あるいは、利用できる範囲があまり広く
>ないというか。私は、そう思っているのですが・・・・?どう思われますか。

わたしはヤントさんのコメントに同感です。ヤントさん同感でーす。AGPさんはどう思われます?

はなから絶対真理と分かっているものを誰も裁きはしないでしょう。そんなことをすれば自分が裁かれるだけです。
文化財らしきものに関し、文化財保存審議会に意見を求めるのは、専門分野の有識者にまかせようということではないのですか?。
>天動説か地動説かを議会で決める事は、今はしません。
とおっしゃっていますが、文化財保存審議会の意見に従わず、あんなもの文化財ではないと放言したり、存廃を議会で採決したりするのは天動説か地動説かを議会で決めていることと50歩100歩ではないでしょうか。私は至る所で、似たようなことが今日も行われていると思っています。ただそのことが分かるのは後世のことだというだけで。

今回の議会の決議には、こんちゃんさんのホームページによれば「現時点では教育委員会と市長部局との意思統一が明確でないとの意見もあるため、市長を中心として一丸となった執行体制を改めて確立した後、当該予算を執行するにあたっては総務委員会に報告した上で、慎重に行う事を要望いたしまして、」という付帯事項がついているよし、何とぞ、慎重に、つまり文化財審議委員会の意見を尊重するようにあなた様からも、市長様の方へお願いしていただければ幸いです。取り壊しが遅れたり、中止になって市長部局や議会の方々を、笑うなどと言うことは決していたしません。また取り壊し賛成の方も、市長部局が議会の決議を尊重して慎重にことを運んでいるのだと言うことで、決して非難することもないと思います。君子は豹変すというではありませんか、豹変してこそさすが市長といわれるでしょう。

KORNさんこんばんは
>>人間の判断で行う方が好きということは
>>1)「神」に対する「人間」ですか。
>>2)占いに委ねる「非合理性」に対する「合理性」(人間)ですか。
>>3)また人間の判断と言えば、他人の判断も入ります。「自分の判断、
>>自分と同じ考えを持った人(人間)の判断で行うほうが好き。」と
>>いうことではないでしょうね。

>1)「神」に対する「人間」、これになると思います。非合理的で様々な
>個性・意見を持ち様々な長所・短所を持つ「人間」のことです。これら
>人間が限られた時間で徹底的に議論した結果の「多数決」であれば、
>私はそれに従います。

1)を選ばれたと言うことは、神、すなわち完全な回答よりよりも、不完全でも人間臭い回答の方がよいとおっしゃるのですね。ただし、徹底的に議論すればですね。あなたの意見はプロセスが大事だと言うことでしたよね。
>長い目で見て失敗だったこともあるでしょう。
>しかし、それを繰り返すことで人間は少しずつ学び少しずつ進歩して行く、
>そう信じたい。

KORNさんの願いのこもった悲痛な叫びですね。わかります。

>しかし、日本では徹底的に議論することをせず、100%の賛成に近づける
>ために「根回し」をします。これが日本で民主主義がうまく機能しない原因
>になっていると考えます。

日本では本当の議論しませんね。主義主張せず、首相が変わる度に「言語明瞭なれども、意味不明。」みたいな新聞の見出しを見るような気がします。そして派閥は解消した筈なのに、何時の間にか復活している。多数派工作をするのに派閥は不可欠なのですね。

KORNさんは、それで、どうして「日本では」なのですか?。つまり外国ではうまく行っているのにってことでしょう?。

それだと、外国の民主主義をお手本にすれば改善できると思いますがね。たしかにプロセスは、外国の方がましなような気はします。しかし、わたしは外国の民主主義も50歩100歩だと思っています、つまりわたしは満足していないということなんですが。一番の優等生はアメリカですか?、イギリスですか?、他はあんまり知らないのですけど。この2国にしてもわたしの持っている知識は知識などと言うものではなく、偏見に過ぎないだろうと思うのですが。何かと報道されて、アメリカ人的考え方は多少は分かる積もりでいますので、差し支えなければそこと比較しながら論じましょう。アメリカはそんなんじゃないと、アメリカ人がこのスレッドに飛び込んでくるかもしれませんね。それも良いじゃありませんか。アメリカに関して私たちの理解がますでしょうから。民主主義の本家から意見が聞けたら勉強になるかもしれませんね。

KORNさんお考えは、
1)真剣に議論して、これがベストと信じて、多数決で決めるならそれでいい。籤など導入するのは嫌い。100%人間が決めたい。
2)日本では多数派工作ばかりして、議論しないから駄目。

と思っていいですか。
同感するところも在りますが、違うところも在るのでこの2点に関して意見を交わしたいと思います。
その前に、何のために多数決をするのかについて大よそでも整理しておきたいですね。
つまり、何かを決定するためですよね。
それで、決定について、別スレッドを立ててみようと思います。そこで、良い決定とは何かを論じてみることで、現在の民主主義や、21世紀の民主主義を批判できる尺度を得られるのではないでしょうか。
夜も更けて参りました。今宵はこれまでにいたしとうござりまする。

AGPさんからのコメント(1999年11月06日 18時37分13秒)
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三三さん、引き続きのご提言、ありがとうございます。なかなか活発なコメントが沢山ですねー。

ちょっと気になったのが、KORNさんの「日本では多数派工作ばかりして、議論しない」つう点。
アメリカ政界だって、もろ多数派工作の世界ですよー! ロビーイストという職業がありますが、もうガンガン
多数派工作、やってます。民主主義的に議会が運営されている国だったら、全部、これやってるでしょう。
学級委員会で文化祭の出し物決める為の表決じゃないんだから、どこの国でも、どんな議員さんでも、必死でしょう。


>ただそのことが分かるのは後世のことだというだけで。

・・・いやはや、そういう事例が市政でも沢山ありまして。
「あの時、飛行場を作っとけば良かった」「あの時、青果市場を離さなければ良かった」「あの時、バラマキ福祉を
止めとけば良かった」「あの時、早くコンテナ対応埠頭を整備しとけば良かった」などなど・・・。   
でも・・・、今回は、もう総て材料は出揃ってますので・・・。


>夜も更けて参りました。今宵はこれまでにいたしとうござりまする。

・・・あはは、なんか「連続大河ドラマ」みたいで、楽しいですね。

三三さんからのコメント(1999年11月06日 20時20分41秒)
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な〜さん 今晩は
今宵は、な〜さんとじっくり腰落ち着けて話しましょう。
な〜さんて、詩人なんでしょう。
な〜さんが「民主主義とは社会を形成している人々が自分達の力を合わせて自分たちの社会をよくしていくこと」として、
細かいことを言えば/町内のどぶ掃除、/ゴミ拾い、/公園の草むしり/これらもみんな/民主主義。/町内会、/老人会、/婦人会、/これらも民主主義。/生徒会、/児童会も/みんなそう。/国会でいう/民主主義は/民主主義でなく/単なる多数決の論理、/民主主義とは思えない/
なんだか、ラップみたいなリズムが有って、自然に歌い出しそうじゃないですか。

三三「わたしは議会制民主主義や、多数決の議論をしようと思っていたのに、「いきなり、どぶ掃除、ゴミ拾い、公園の草むしりが民主主義だ。」とおっしゃるので、このひとどういう人としばらく様子を見ていました。」
な〜さん「投票率が40%位じゃ、議会に民意が反映される分けがない。多数決にしようが籤にしようが民意が反映されてないから民主主義と呼べる筈がない。まず、国民が選挙に参加することが第一歩だ。」
三三「うん、うん。だから日本の民主主義は議会で審議がどう、多数決がどう、と言うほど成長していないというんですね。分かる、分かる。で市庁舎問題は?」
な〜さん「多分一番多いのは『どちらでもいいや、勝手に決めて』と言う意見かと。」
三三「・・・・・・」
な〜さん「むかし、集団で田植えしたり、集団で災害時に対処したり、集団で一つの目的を持って協力する、そういうのが民主主義なのかな。」
三三「みんなが自分のエゴで、勝手なことをするのでなく、協力して皆豊かになろうとする、皆満足できるように考える。49人党を切り捨てるのでなく51人党の政策も、49人党の政策も、100人全部ハッピーになれるような政策でなければならない。そういう必要がありますよね。」
な〜さん「ところが、政策論争がなく、どの政治家が何を考えているかわからない。ひどいとき(多くがそうか?)選挙の公約が有名無実化し、議会になると全然違うことが起きてしまう。また法案決定も納得できない審議会や議会を経て決まっている。(十分な議論がなされたとはとうてい思えないし、寝ている議員も多いらしい。)公聴会や住民投票というのは議会制度そのものが民意を十分反映しないという欠陥が有るから行われるようになったのだろう。ところが、そこで出された意見が反映されないのなら、議会制度の欠陥は何も補われていない。一体どのように考えるべきなのでしょう。」
三三「議会だけでは、民意を十分反映できないから、文化財保護審議会のようなものを置く。それは、いい考えだ民主的だと(民意は)思うわけですよね。ところが、その審議会で全員が保存せよという意見を出した。(10人中9人でしたかね。辞表を出さなかった委員は保存だったのですか。撤去だったのですか。)それなのに審議会の意見を無視して議会は撤去を決めてしまう。文化財保護審議会を置くというのは、表向き、民意を反映しますよという格好をして見せて、審議会が自分達と違う意見を出したら、おれたち議員が民意を代表しているのだと開き直って、審議会の意見を聞かないわけですよね。民意を反映しますよというのはポーズだけで市民はだまされたって感じですね。実はわたしだって、第一別館の建物の前に、ちょっと駐車したことだって有ったのに、なんとも思っていなかったのですよ。だけど、文化財保護審議会の委員が辞職したというのがテレビや新聞で報道されて、何が起こっているのだと思って注意を喚起されたわけですよ。そのうち、『下熱』で何かやってるという話を聞き込んで、・・・。まあそれまでは、選挙には行ってましたが、一票を投ずるだけで市政には大して参加しているという手応えは感じませんでしたね。なんだかた頼りなくて。
選挙にしても、候補者は名前だけのポスター張って、名前だけを大声で放送して、あとは握手して回るだけで、所信や、公約や、ちょっとは胸のつかえがスーっとするような演説をして見ろって思ってましたよ。「下熱」に参加するようになって、読まれてるのかどうか分からないけれど、今は市政に関して論じ合えるという張り合いというか、幸福感というか、やっと意見を言う場が見つかったという積年の鬱憤を晴らしてるところですよ。だから、こういう場を寛大にも、提供してくださっているはまかわさんなんかには、大変感謝しているし、こんなことになるきっかけとなった、例の思い切って辞表を出された文化財保護審議会の方達にも感謝しています。でないと、こんな所に出てきて、AGPさんや、こんちゃんさんや、それにいろんな方とも、意見を交わすことなど知らなかったでしょうからね。それが、演説聞くだけでなく、自分も一丁前にスレッドなど立てられるなんて、まあ、夢みたいな世の中になったのもですね。インターネット人口がもっと増えれば、所信表明や、公約など皆、ネット上で行ったり、国会での審議も、皆ネットで公開されるようになるかもしれませんね。そうすると、国民も、ずっと参加できて、選挙の投票率も、上がるかも知れない。とにかく議員について知ることが出来るようになると、投票率は上がるでしょうね。草の根民主主義から、ようやく、インターネットエイデッド議会制民主主義になっていくかもしれない。」
な〜さん「それから私は医療に携わっているのです。最近の福祉は明らかに後退しているなと思います。で、患者さんもそのことが不満です。でも選挙の時は例えば寝たきりの方、痴呆の方は投票に行けない、出来ないという現実があります。細かいことですが、何とかならないものかと。(これは21世紀の民主主義のスレッドが適当かな?)」
三三「それこそ、インターネットで投票というのは考えられませんかね。お金だって支払えるのですから。本人が投票しているという確認と、投票の秘密を守ることが出来れば可能なんじゃ有りませんか。」
な〜さん「最後にまた暴言かもしれませんが、よく国会議員等の方が無理矢理法案を通したときなど「我々は選挙で選ばれた。国民を代表しているんだ」と言われますが健全な(こういう言葉が適切かどうかはわかりませんが)議会民主政治がなされていないケースにおいてはこれは詭弁にすぎないといつも感じております。」

この対話の、な〜さんの部分は、ほとんどスレッド「民主主義って何だろう?」のな〜さんの発言を抜書きしています。歪曲していませんよね。こんなに意見が近いとは知りませんでした。楽しかったです、またどうぞよろしく。

な〜さんからのコメント(1999年11月06日 21時22分26秒)
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な〜 です

三三さん こんばんわ。

ちなみに
>な〜さんて、詩人なんでしょう。

残念ながら違います。
私はもっと文学的才能があればもっと違う職業に就くことが出来たのに
といつも思っております。

私は元々は「もこ伝」の住人でして、時々川崎さんの伝言板にもおじゃますることが
ありました。そこで下熱がもっとおもしろいと言う噂を聞いてふと顔を出したら
なんかおもしろそう、と感じたのです。
下関に何のゆかりもありませんがついつい参加させていただいております。

下熱をみて下関は日本の文明開化に重要な役割を果たしてきた町なんだ
と感じ機会があれば訪れてみたくなりました。

最近君が代、国旗問題で日本の誇りとは何だろうと自問自答することが
あり、結局我々はもっと自国の歴史を知り、その歩んできた道を理解し、
守っていくことが誇りにつながるのではないかと考えるようになりました。

このごろ合理的=グローバルスタンダードの様に言われます。
日本の文化は無駄が多かった、もっと欧米に学んで合理化しないといけない
という風潮が強いように思えるのですが、私はそうでないんだ、日本の文化は
やっぱり日本の風土、慣習にあった合理性を備えていて決して非合理的では
ないんだ、と思っております。

もしアメリカの米(こめ)自由化に押され農家がなくなり水田がつぶされればどうなるでしょう。
自給率のみならず、大雨の時の貯水槽が亡くなり、都市部は水があふれ地下街で
亡くなる方が増えるかもしれません。
値段という一面だけから判断すれば本来の役割が見えてきません。

文化を継承するのは合理性を追求するためではないと思っています。
生活のゆとり、心のゆとりであると思っています。

第一別館問題だけで言うなら採算が合わないから残せないでなく、
文化財だから残すんだ、でいいと思っています。
(下関に税金も払っていないのにといわれるかもしれませんが
一応国税は納めています)
これが民意を反映しているかどうかは別問題だし、第一別館が文化財かどうかも
別問題ですが。

三三さんからのコメント(1999年11月08日 02時12分54秒)
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ゅうちゃんさん 今晩は

三三「今宵は、貴殿を徹底解剖するつもりで登場いたしました。三三のスレッドに登場されたわけではござらぬが、民主主義三つのスレッドは合わせて一つのセットで御座れば、今宵はお覚悟召されい、夜の更けるまでお話しもうそうぞ。」
しゅうちゃんさん「こころえた。どこからなりとも、口火を切られい。」
三三「貴殿は、11月2日にKORNさんのスレッドに初登場されましたな。その折、
『憲法や行政法を専攻する学者の人(学者の人ってことはないでしょう。学者は人で御座る。揚げ足取で御免。)は「民主主義とは何か?」、「民意をより適切に反映するために編み出されたのが民主主義なら、少数意見をどうそれに反映するのが理にかなっているか」、そのための法制度は?、いつも自問自答しながら仕事をしていると思います。その意味でこのテーマはすごく関心があります。』と申されているが、ということは、お主、憲法や行政法を専攻する学者の人ってことで御座るな。」
しゅうちゃんさん「うむ。お主、なかなか出来るな。早速に一本取られ、いや、一本と揚げ足取のコウカをとられたようじゃな。ハハハ。如何にも、その学者で御座る。そして拙者常々、民主主義が民意の反映のために編み出された制度であるとするならば、多数意見と少数意見の存在を前提としなければならない。審議がなされ、意見がまとまらないない場合には、審議が尽くされたとして多数決原理をベターな制度と見るのか、少数者の意見を押さえたものと見るのか?民主主義ー多数決原理ー少数者の意見が押さえられる、これを民主主義と見るなら、自分たちの意見を反映させるためには、利害を同じくするものが多数を形成したほうが自分たちの意見を通しやすくなくなる。」(一息入れて、ぐいっと一杯。三三、静かに酒を注ぎながら、目で先を促す。)
しゅうちゃんさん「こう考えて、政治の世界では多数派工作、合従連衡(がっしょうれんこう:力を合わせて強敵にあたること)が行われるとみるのか?また、少数者やフリーハンドの人が反対しずらくなるような環境を、議会の多数派も行政も行うようになるのか?
そういう弊害を是正するために法律はどういう制度を編み出し、どういうチェックができるのか? 仕事柄、大いに悩んでいる。そして、その疑問と絶えず戦いながら仕事をしている。う〜ん。難解なテーマ。一生解きほぐせないテーマなのか、それを意識しながらその課題に立ち向かっているというところでおじゃるよ。ただ、一つだけ言えることがある。そういうことを意識しているから、民意を決定する際、より慎重な決定手続きを要求するような法制度が編み出されてきつつあるという点でござる。 公聴会なり、審議会の意見を聞かなければ、たとえ議会で多数決で決まってもその決定は無効とされる場合があるということでござる。電波法で定められた審議会や原発設置のための公聴会がそれにあたり申す。しかし、それとて、形式を踏めばよいことであって何の解決にもならないという批判がござる。それと、たとえ一人であっても、決定に反対して異議を唱える方法がないわけでは御座らぬ。住民監査請求や住民訴訟を地方自治法では用意して居り申す。ただ、これとて、裁判官は、その異議を認めることに対し慎重になっているという傾向が御座る。認める方が例外的であると拙者は承知いたして御座る。また、そういう異議を唱える人に対して異端者とみなす人も多ござる。下関の場合どうなのかな?、掲示板からその一端を見たいと思って皆様の意見を絶えず拝見して居るところで御座る。平たく言えば、研究材料にしているというところでござろうか。?」
三三「これは、これは。貴殿も下関の住人ではないと申さるるか。かのな〜さんとか言う御仁も、下関の住人ではないと申されておったが。ということは、今度の事件はやはり全国的に相当の関心を買っているということで御座るの。しかし、反対に、貴殿らが下関の住人でないと知ったことは、下関もまだまだ捨てたものではないと思っており申した拙者にとっては実に残念で御座る。何やら淋しい気も致しまするわい。いや、しかし、友遠方より来る、また楽しからずやでござる。何の此れしきのことで、意気阻喪ししょうぞ。拙者の目の玉の黒いうちは、希望は捨てませぬぞ。」
しゅうちゃんさん「あまりご無理はなさらぬよう。しかし、頑張ってくだされ。陰ながらご健闘をおいのり申しましょうぞ。」
三三「かたじけない。ときにしゅうちゃんさん殿、『貴殿は第一別館との関係で同趣旨のスレッドが立ちました。立場上、第一別館の件に関しては踏み込んだコメントはできませんから、このスレッドにコメントを書き込みました。』と申されておったが、あれはどういう意味で御座ろうの。」
しゅうちゃんさん「む、そのことで御座るか。ま、時が来れば分かることで御座るよ。」
三三「時が来ればの。はは〜ん。何やら、読めたようなような気も致しまする。ま、どうでも良いことで御座る。」
しゅうちゃんさん「お分かりもうしたか。どうでも良いことで御座るよ。」
三三「して、しゅうちゃんさん殿。貴殿はな〜さんに、『僕も西欧型の民主主義と日本型の民主主義を同列に扱っていいものかどうか疑問符を持っています。似て非なるものじゃないか。絶えず、そのことが頭から離れません。』という風に申されておったようじゃが。あれはどういうことで御座るかの。」
しゅうちゃんさん「アメリカ型民主主義は行政、議会に対するロビー活動、つまり、利益代表的な機能ももっているが、住民投票、納税者訴訟など住民のチェック機構も日本よりははるかに整備されて御座る。(アメリカの場合、法制度上、日本の国にあたるのは州に該当しますので、州を念頭に置いてのことで御座るがの)。そして、行政活動の源泉となる税の使途に関する法的チェックは日本の比では御座らぬ。なぜなら、たとえ国に対してても、少数者が納税者訴訟をおこせる制度なども用意されているいるのでござる。しかし、地域といっても、土地利用規制を通して、地域に住める階層も、富裕層と貧困層とが歴然と分かれて御座る。それ故、地域的同質性がすごく強く、地域との関係から言えば、議会は地域の利害代表でもあり、また、税の使途を通して、一般に政治への関心も高く、選挙の投票、住民参加もさかんとも取れまする。」
三三「KORNさんが、『数の論理すなわち多数決こそが民主主義の本質ではないでしょうか。』と言って居られるのに対し、その点では、意見が違うといっておられましたな。『むしろ僕は「最大多数の最大幸福」という原理に裏付けられた19世紀型の民主主義の本質が、数の論理すなわち多数決こそが民主主義の本質であると考える民主主義と思っているんです。20世紀、現代型民主主義の本質は「審議を尽くすプロセスを慎重に」ということにあると思っているんです。』とか何とか」
しゅうちゃんさん「いや、良くご記憶で。そのとおりで御座る。その点では、「少数意見の尊重」のありかたをどう考えるのかとかかわる問題でござる。審議を尽くすプロセスを慎重に、ということはどういうことかといえば、100%を満足させるに越したことはない。しかし、審議を尽くしたうえで49%より51%の満足を優先させても決断が必要とするのが民主主義ならやむをえないとする考え方でござる。つまり、集団のなかでそれぞれの個人の考え方、価値観が多元化し、全員の意思の合致をみることも難しい。価値は相対的に尊重されるべきであるから、むしろ、その決断のプロセスが適切であれば、決断そのものも妥当とみなすという考え方の下に、現在の民主主義の本質があると思うので御座る。たとえば、公聴会の開催を義務付けたうえで、行政決定し、議会の議決を経なければならないということを法律が義務付けていた場合、公聴会を開かず、行政と議会だけで決定を下したらその決定が無効になる場合がござる。無効とされたら、再度、公聴会を開き、行政と議会が同じ決定をしてもそれは問題ないとされて居りもうす。

なぜそんな面倒なプロセスをとるのか? いくつかの理由がござるが、上にあげた理由と51%の賛成でも49%の人にも決断の責任をとらせる弊害をとらせる制度が民主主義であることと、責任のとりかたが実にあいまいになりがちなのが民主主義という認識に裏付けられているからだと考えています。つまり、民主主義の本質は多数決原理、オールマイテイではないという認識があるからだと思います。」
三三(ちと、しゅうちゃんさん、酩酊して来られたかな。)「なぜそんな面倒なプロセス、その『面倒なプロセス』というのは、つまり、公聴会を開いても、必ずしも公聴会の多数意見に従わねばならない事はない。公聴会と反対の決定を議会がしても有効であるとされる。それなら、議会だけで決定してもよいではないか。それにもかかわらず、公聴会を開かないで議会が決定すれば、決定が無効とされることがある。その一見、無駄と思える公聴会を開くという事が面倒なプロセスという事で御座るな。」
しゅうちゃんさん「お分かり申されたか。それはめでたい。」
三三「何故そんな面倒なプロセスをとるのか。その理由は上にあげた理由、『上にあげた理由』とはどれの事で御座る。? 『100%を満足させるに越したことはないが、審議を尽くしたうえで49%より51%の満足を優先させても決断が必要とするのが民主主義ならやむをえないとする考え方でござる。』とうことで御座るか。?『51%の賛成でも49%の人にも決断の責任をとらせる弊害をとらせる?、』何々、言葉が重複しておるようで御座るが、これは『51%の賛成でも、49%の人にも決断の責任をとらせる弊害を有する制度が、民主主義であるという認識が米国民には有る』という事で御座るか。ヤレヤレ。ヤットキリヌケモウシタゾ。ちと骨が折れ申した。」
しゅうちゃんさん「拙者も心もとなかったが、よくぞ千鳥足のあとを辿られた。良い根性をしておられる。」
三三「『責任のとりかたが実にあいまいになりがちなのが民主主義という認識に裏付けられているからだと考えています。つまり、民主主義の本質は多数決原理、オールマイテイではないという認識があるからだと思います。』ということは、議会では多数派の意見が通ったが、住民の多数意見を代表していたのは実は少数派だった、ということを明らかにしておく。そして次の選挙で責任を取らせるかどうか住民が考えるという事で御座るか。」
しゅうちゃんさん「さようで御座る。」
三三「いや、なかなか勉強になりもうした。AGPさんが知ったら、半分喜びそうで、半分不安で御座ろうな。今度の場合、米国であったなら、公聴会(文化財保護審議会との協議会)を開くという手続きを取らなかった。従って、法的に決定は無効とされる可能性は有る。しかし、法的に無効とされても、もう一度、文化財保護審議会と協議会を開けば、必要な法的に求められているプロセスを経たので、再度第一別館を撤去するという決定をする事は出来る。あとは、選挙でみそぎを受ける。」
しゅうちゃんさん「このような決断プロセス重視の考え方は最大多数の最大幸福という原理の弊害を是正するものとして、今世紀初頭から、英米で編み出された原理で手続的正義が民主主義には必要とされ、日本の行政法規のなかにも取り入れられるようになった原理でござる。拙者は、これを最大多数の最大幸福という原理の、現代的修正であると考えてござる。そして、現代型民主主義の本質は「審議を尽くすプロセスを慎重に」と考える所以でござる。」
三三「な〜さんが、
『>今の日本の議会政治(と言うのでしょうか)にそもそも
>民意が反映されているのでしょうか。
>投票率もさることながら選挙の際の政策論争がなく、どの政治家が何を考えているか
>わからない。
>ひどいとき(多くがそうか?)選挙の公約が有名無実化し、議会になると
>全然違うことが起きてしまう。
>また法案決定も納得できない審議会や議会を経て決まっている。
>(十分な議論がなされたとはとうてい思えないし、寝ている議員も多いらしい
>CATVで議会が放映されるようになって寝る議員が減ったという話は
>よく聞く)
>それでより住民の意見を政策に反映させてほしいというので
>公聴会なりが必要になってきたようなきがするのですが?
というのに対して
 議会制っていうものは代表を通して民意が反映されるであろうという仮定のうえに組み立てられ、展開されてきたものであるとぼくは思っています。
運営の仕方によっては、民意の反映どころか、逆の方向だって走りかねない。そういうものを最初から含んでいる制度であるとぼくは考えています。なぜ、そうなるのか、政治学者の人たちがさまざまな指摘していますが、さまざまなエゴが複雑に絡んでいる結果だと思いますよ。政党間のエゴもあるだろうし、地域エゴもあるだろし、利益団体のエゴもあるだろうし、行政内部間のエゴもある。 ただ公約という形で選挙民に政策を約束し、信頼関係のうえに選挙民から選ばれた代表者だって、議会の中では会派を作らなければ議案の提案権すらない。会派、つまり集団を作ることから、自らの意思を実現するために必然的にそのエゴに巻き込まれざるを得ない。 それが民主主義の一面だと思うし、選挙民と代表者の信頼関係っていっても、利害というかエゴというものが介在されていない限り、代表民主主義における選挙民と代表の公約を通した信頼関係も仮定のうえの存在にしかすぎないと思いますよ。(三三注:つまり、エゴで結ばれているということですな)
う〜ん、ぼくはな〜さんの民主主義に対して抱いていらっしゃる疑問もっともだとおもいますよ。そういう形でも運営される可能性があるのが民主主義と考えてはいかがですか? 冷めてものごとを見るのが学者の役割、熱い思いを民衆に訴えて政治を動かすのが政治家。その熱い思いと信頼関係のなかに、な〜さんの指摘される落とし穴があるということかな?』というくだりがありましたな、ま、これは大体理解できまする。さすが学者ですな。覚めた目で現実を見ておられるな。次は」
しゅうちゃんさん「KORNさんに言った事で御座るな。KORNさんが『日本人の多くは「政治は良く分からん。選挙も面倒くさい。立派で信用が出来る“偉い人”に任せておけば良い」>と思っているのではないでしょうか。しかしこの考えは「君主制」のそれであり、「民主制」とは正反対の考え方です。(君主制がいけないとは言いません。それもひとつの選択肢ではありますが)「民主制」は国民に努力を要求する制度です。主権者は国民なので全ての権利を持つと同時に、全ての責任を負います。「立派で判断力のある偉い人」におまかせできない。』と言っているのに対し、実は僕も同じ疑問を持っています。なぜなんだろうかな? そんな疑問がいつも頭のなかから離れません。ぼくはそれを「草の根民主主義」に対することばとして「草の根保守主義」によるからでは?という仮説の下で学生たちに説明しています。つまり、有力者によって支えられた政治という意味においてです。立命館大学の宮本憲一教授も同様な見解を述べられていますので、日本の政治の現状を草の根保守主義と考える学者先生も少なくないと思います。
 町内会の運営は町内の有力者に支えられ、町内の要望事項は町内の有力者を通して市町村にあげられ、それを実現するために代表者を議会に送り出す。そういう仕組みが上は国政まで作り上げられている。それが政治の現実なんだと分析されているんです。 
 町内会、子ども会から民主主義を考える、というな〜さんの見解を拝見し、草の根保守主義という考え方を真っ先に思い浮かべました。考える視点が共通しているという意味で。
もちろん、な〜さんは草の根保守主義の見解とは見解を異にされるとは思いますが、民意の反映の仕方に関心をもたれているのも当然かなとも思いました。町内会の民意の反映の仕方の現状はどうなんでしょうか?実は、ぼくはこれがよく分からないんです。なぜなら、夫婦共働きで町内会に入っていないんです。このあたりから、KORNさんの仮説を考えてみたいのです。さしさわりのない範囲で教えていただければ幸いです。』といいましたが、ここまではよろしいかな。」
三三「うん、結構で御座る。「草の根民主主義」と「草の根保守主義」で御座るな。「草の根保守主義」というのは、有力者を通して意見が吸い上げられていくという事ですな。次にKORNさんと話されましたな。」
しゅうちゃんさん「何やら厳しい、取り調べに会うているような気がしてまいりました。」
三三「とんでもない。ま、お気を楽にさっしゃりませ。ささ、もう一杯。秋の夜は長う御座る。」
しゅうちゃんさん「KORNさんが『人類が考えた“決断”の方法としては最も合理的だと考えます。民主主義の本質は「51%で決断できる」という点にあるのではないでしょうか。』と言われたのに対して、、、、。」

三三「あれは長いコメントで御座ったな。あれは結構で御座る。知りたい方は「民主主って何だろう?」のスレッドのしゅうちゃんさんのコメント(1999年11月05日 02時35分22秒)を見ていただきましょう。要するに多数派が間違っているケースが有る。こういう場合を想定すれば、多数決原理が最も合理的であると考える気にはどうしてもなれない。だからこそ、審議を尽くすプロセスを慎重にという考え方の下に20世紀の民主主義国家の諸制度は作り上げようと努力されてきた。「20世紀の民主主義」の本質を「審議を尽くすプロセスを慎重に」考える理由の一端はそこに由来するということでござるな。」
しゅうちゃんさん「そういうことで御座る。」
三三「つぎのしゅうちゃんさんからのコメント(1999年11月06日 12時00分35秒)は重要、かつわかりやすいので再掲させていただく。KORNさんの
『人間が人間を裁くという行為は「合理性」などと言うモノサシではとてもじゃないけど図れない。たとえ人間が「多数決」に変わる、より合理的な手法を手に入れたとしても、この問題は解決することは無いでしょう。』
に対して

 KORNさん:
    レスありがとうございます。刑事裁判に関しては僕も同様の見解を持っています。最初から、答えをあきらめているのか、と尋ねられれば、刑法学者に尋ねてくれと逃げの一手をうち、「ホット」胸をなでおろすというところでしょうか? でもね。国家が国家や地方自治体を裁く、具体的に言えば、司法が行政や立法の行為を法と名のもとで裁く、違憲立法審査権の場合が典型例ですけど、これをどう考えるか? いつも、僕たちはこの問題に直面するわけなんですよ。刑事裁判とそれとは本質的異なるという見解も成り立ちうるけれども、国民の意思の現れと仮定された法(こう考えないと現代国家の制度そのものが否定されると考えれば)の名のもとに司法が判断を下すという意味では、刑事裁判も行政裁判も変わらないと僕なんか考えるものですから、悩むこと悩むこと(笑)。

 そのような代表例としてニューデイール期の社会立法の例があります。ご存知のようにニューデイールの社会立法によってアメリカは大恐慌を抜け出すきっかけを作ったのですけど、当初、連邦最高裁はニューデイール期の社会立法をことごとく「違憲」であると判断し、ニューデイール政策実施の障壁を作り出したんです。最高裁判所の裁判官の意見も分かれ、多数意見で違憲と判断を下したということなんです。ルーズベルト大統領は違憲と判断した裁判官の首を挿げ替えることによってこの問題を最終的に乗り切った。このケースでは三権分立をどう考えるかという別の問題はありますけど、もう一つの問題は民意をどう考えるのかという問題もありますよね?

 つまり、15人の裁判官の判断が、純粋に良心と法に基づいて、(法の判断を委ねられたという意味では民意とも言えると思います)社会立法も代表者が決定したという意味では民意の現れととれる。そして、議会のほうがはるかに判断する人数が多い。
学生にはこのケースも引き合いに出して民主主義、多数決、少数意見をどう考えるか? いつも考えてもらっています。

>どちらが正しいなんて人間にはわかるわけない。

学者としては無責任といわれるかもしれないですが、ぼくも同意見です。だから、プロセスの問題で解決したほうが良いのではと考えるのかもしれません。いずれにしても、多数者の少数者に対する起こりうる結果に対する責任は残ることは確かですが・・・。」

三三「しゅうちゃんさん殿の意見は、
1.多数決が最も合理的とは思わない。
2.従って、決断プロセスを重視することで、「最大多数の最大幸福」という19世紀的原理の、現代的修正に望みを掛けようと思っておるが、いささか、こころもとないという事では御座らぬか。して現在も、考え中で、結論などと言うものはあるのかないのかという事で御座るな。」
しゅうちゃんさん「大体そんなところで御座るが、拙者は影武者で御座る。ほんとのところは本物がコメントするであろうと、存ずる。」
三三「いやあ。今宵は遅くまで、お付き合いいただきかたじけのう御座る。今宵は貴殿を理解する事が主目的で御座ったゆえ、大体その目的は果たし得たような気が致しておりまする。貴殿のごときその道の達人と膝突き合わせて語り得たは、望外の幸せ。貴殿に対するコメントは改めていたしましょうぞ。今宵は、月が、いや、月は見ませぬようじゃ。それではごゆるりと、お休みくだされ。」

しゅうちゃんさんからのコメント(1999年11月08日 08時28分05秒)
 

本人によりコメントは削除されました。 1999年11月08日 10時25分01秒

しゅうちゃんさんからのコメント(1999年11月08日 10時23分18秒)
           パスワード

お疲れさまでした。ぼくはこのスレッドに参加するつもりは最初からありませんし、今後もありません。
これを読んで思ったこと。「ミルの考え方はミルに直接聞いたほうがより正確である」ということかな?(僕は野に咲くれんげ草のような学者ですが・・・(笑))。
  
   それと私は下関の納税者の顔と市職員の顔と両面もっています。また、学者としての顔も持っています。
 私たちの大学の理念は「大学は地域に根ざし、学問は世界を目指す」ですから、地域のことに人一倍関心を持っております。しかし、まだ、最終的な政策決定がおこなわれておりませんので、私の立場上は踏み込んだコメントはできません。
 民主主義と学問に関心をもたれたら、是非、来年、開学を予定している市立大学の大学院に社会人入学をされて、民主主義と地方自治について語りたく思います。今のところ、私も担当者の一員になることが予定されています。入試に合格していただかなければなりませんが、三三さんのような学識のあるかたならきっと入試は大丈夫であると確信しております。AGP、学長はじめ、教職員一同、心よりお待ちしているとおっしゃると思います。

 >拙者は影武者で御座る。

 影武者にまでれんげ草をみていただき感謝しております。AGPもぼくのスタンスをよくご理解されていらっしゃると思いますよ。一人の納税者の意見であり、学者の意見であるに過ぎないということを・・・。



 
   

三三さんからのコメント(1999年11月09日 00時08分31秒)
           パスワード

な〜さん こんばんは

>最近君が代、国旗問題で日本の誇りとは何だろうと自問自答することが
>あり、結局我々はもっと自国の歴史を知り、その歩んできた道を理解し、
>守っていくことが誇りにつながるのではないかと考えるようになりました。

わたしもそう思います。
国旗という言葉で、日の丸という言葉でなかったのには、何か思いが有るのでしょうね。
わたしは、君が代を国歌とし、日の丸を国旗とする事に異存は有りません。しかし、自民党や、文部省から君が代を歌え、祭日や式には国旗を飾れ、それに向かって礼をせよなどと圧力を掛けられて、歌ったり、飾ったりするのは嫌なものだと思っています。国民が自発的に自由な意志でそうするのでなければ意味も喜びもない。飾りたいところで、飾りたいときに国民が飾るでしょう。国際試合のとき、スタンドに日の丸が見られるように。
戦争の嫌な思い出が有る、だから国歌も、国旗も別のに変えよという人の気持ちが分からないわけではありません。しかし、嫌な思い出が出来る度に自分の名前を変えていたら自分はどうなるのか。日の丸には栄光ばかりがあるわけではない。怒りや悲しみや、残虐行為や、恥辱や、欺まんなど汚辱に汚れきってもいます。しかし、いったい誰が汚したのか、軍隊?、財閥? だが、そこで得た利益に私たちは与かっていたのではないか。彼等が、独裁者で、我々は被弾圧者であると敢えて思い込み、自分達もまた被害者のような顔をしたい。だが、東南アジアや韓国や中国などの人にはそれが納得できない。日本人は加害者であるのに、それについて若い者は勿論、年取ったものも、良く知らない。つまり済まないという気持ちが国民にないと思うのである。殊更に、ほじくり出して、お詫びの旅をしたいなどとは思いませんが、心のうちに、それらの国の人々に対する、済まないという思いは忘れないようにしたいと思っています。
日の丸を栄光のシンボルのような教え方をしていけば、将来必ずまた大きな過ちを犯す事になるとおもいます。かっては、戦争と共に日の丸が有った。だからイメージが悪い。そして別のデザインの国旗を定め、それに良い印象だけを残そうと、する事は、日の丸の崇拝と考え方において本質的な変わりはないと思います。そんな安易な考え方では、ますます、日本の誇りはなくなってしまう。たとえだまされ、たとえ、強制されて戦地に赴き悲惨な死を遂げ、敗戦の屈辱にまみれたとしても、そのすべてと共に有ったのが日の丸である。汚れを少しでも、薄くしたければ、日本自身が、平和を愛し、自国の国益ばかりを、主張するのでなく、常に皆の利益のために率先して働くことにより、少しづつ、少しづつ、汚れが薄くなる事を願うしかない。
君が代も、日の丸も、個人にとっての顔みたいなものです。父母の間にそのように生れたのです。その結果、どういう運命が待っているか知らないが、それが自分の歩むべき人生なのです。それを自分の意のままに、変えてしまったら、もはや、自分が自分でなくなるような気がしてなりません。日の丸に染み込んだ、栄光も汚れもそれはみんなのかけがえのない財産でなければならない。わたしはそんな風に考えています。



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