[下関を熱く語る!!一覧に戻る] お名前:KORN
コメントの種類:政治 久しぶりにスレッドを立ててみました。 政治ネタで、ちょっとヤバイかなという気もしないでもないですが、 まあ気軽に読んで下さい。 最近『民主主義とは何か』ということについて良く考えさせられるのです。 「第一別館問題」のスレッドでも民主主義の欠陥について指摘された方もいました。 また、自民・自由・公明連立のプロセスを見ても、日本は「民主主義」というシステム を使いこなしているのだろうか、という疑問も感じます。 だた、私は日本で一般的に考えられている「民主主義」のイメージに、若干の違和感 も感じています。ひょっとして多くの日本人は民主主義を誤解しているのではないか? (私が感じている日本の民主主義に対する違和感は、追々述べるつもりです。) ここで、皆さんの民主主義に対するお考えを聴かせていただけないでしょうか? もちろん単なる思いつきでも構いません。こういう問題は気楽に語った方が楽しいし。 ちょっとばかり“居酒屋気分”で語ってみませんか。 (最近、居酒屋精神を忘れてるなあ〜〜) 居酒屋なので、お酒が不味くなるような話はNGですが、現実社会での自分の立場は 忘れて大いに語って下さい。偉そうなこと言ってますが、私はただのサラリーマンです。 いかなる政治団体にも所属していません。しかし日本国の主権者の一人でもあります。 主権者が国のことを考えなくなったら、その国はもう終わりですから・・・ |
な〜 です。
私の思っている民主主義
「社会を形成している人々が自分達の力を合わせてで自分たちの社会を
よくしていくこと」
細かいことを言えば町内のどぶ掃除、ゴミ拾い、公園の草むしり
これらもみんな民主主義。
町内会、老人会、婦人会、これらも民主主義。
生徒会、児童会もみんなそう。
国会でいう民主主義は民主主義でなく単なる多数決の論理、
民主主義とは思えない。
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月02日 09時13分44秒
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月02日 09時18分38秒
KORNさん:
憲法や行政法を専攻する学者の人は「民主主義とは何か?」、「民意をより適切に反映するために編み出されたのが民主主義なら、少数意見をどうそれに反映するのが理にかなっているか」、そのための法制度は?、いつも自問自答しながら仕事をしていると思います。その意味で、このテーマにはすごく関心があります。そして、民主主義とは何か、一生かけても結論の出せない永遠の課題と考えている学者さんのほうが圧倒的に多いと思います。
民主主義が民意の反映のために編み出された制度であるとするならば、多数意見と少数意見の存在を前提としなければならない。これは言うまでもありません。しかし、その場合、話し合いによってもまとまらなければ、いつ決断するのかという問題が絶えずつきまとうと思います。
さあ、この点をどう考えるのか? 審議がなされ、意見がまとまらないない場合には、審議が尽くされたとして多数決原理をベターな制度と見るのか、結果的に(言葉を選んでいます)、少数者の意見を押さえたものと見るのか?民主主義ー多数決原理ー少数者の意見が押さえられる、
これを民主主義と見るなら、自分たちの意見を反映させるためには、利害を同じくするものが多数を形成したほうが自分たちの意見を通しやすくなくなる。
こう考えて、政治の世界では多数派工作、合従連衡が行われるみるのか?また、少数者やフリーハンドの人が反対しずらくなるような環境を、議会の多数派も行政も行うようになるのか?
そういう弊害を是正するために法律はどういう制度を編み出し、どういうチェックができるのか? 仕事柄、大いに悩んでいます。そして、その疑問と絶えず戦いながら仕事をしている。う〜ん。難解なテーマですね。一生解きほぐせないテーマであると思いながら、それを意識しながらその課題に立ち向かっているというところでしょうか?
ただ、一つだけ言えることがあると思います。そういうことを意識しているから、民意を決定する際、より慎重な決定手続きを要求するような法制度が編み出されてきつつあるという点でしょうね? 公聴会なり、審議会の意見を聞かなければ、たとえ議会で多数決で決まってもその決定は無効とされる場合があるということです。電波法で定められた審議会や原発設置のための公聴会がそれにあたります。それとて、形式を踏めばよいことであって何の解決にもならないという批判があります。
それと、たとえ一人が決定に反対して異議を唱える方法として、住民監査請求や住民訴訟を地方自治法では用意していることです。ただ、これとて、裁判官はその異議を認めるのには、勿論、慎重になっているという傾向にあると思います。認める方が例外的であると僕は判断しています。また、そういう異議を唱える人に対して異端者とみなす人が多いのではないでしょうか。下関の場合どうなのかな?、この掲示板からその一端を見たいと思って皆様の意見を絶えず拝見しています。平たく言えば、研究材料にしているというところでしょか?
第一別館との関係で同趣旨のスレッドが立ちました。立場上、第一別館の件に関しては踏み込んだコメントはできませんから、このスレッドにコメントを書き込みました。
「個別的事例から民主主義とは何か?」と議論したほうが考えやすいですから、上のスレッドで議論されてもいいんじゃないでしょうか?僕は興味深くROMさせていただきます。僕のコメントは話題提供ぐらいのつもりで書きましたので。
な〜 です
私一人がとんでもないコメントをしているような気がしますが、
はて日本の民主主義は議会で審議がどう、多数決がどう、
と言うほど成長しているのでしょうか。
選挙の投票率は?たかだか40%ぐらいの投票率で
民意が反映されているの?
一番大切なのは国民が選挙に参加することが民主主義の
第一歩では?
つまり、一人一人が自らも関わって地域をよくしていこうという
気持ちの表れ、まずはここから始めないといけないのでは?
と感じているのですが。
で、地域社会の関わりすべてが民主主義につながりますよ
というコメントになったわけです。
市庁舎問題でも多分一番多いのは「どちらでもいいや、勝手に決めて」
と言う意見かと。
私の意見はこのスレッドの論点からずれているのでしょうか?
あらら。
な〜さんに質問する前に、な〜さんからコメントが書き込まれている。、
な〜さんの疑問の根底にあるのは日本型民主主義のあり方、運用に対する疑問ですよね?
実は、僕も西欧型の民主主義と日本型の民主主義を同列に扱っていいものかどうか疑問符を持っています。
似て非なるものじゃないか。絶えず、そのことが頭から離れません。なぜ、そう考えるのか?
書き出したら長くなりますので、簡単に書き込みたいと思いますが。アメリカ型民主主義は行政、議会に対するロビー活動、つまり、利益代表的な機能ももっているが、住民投票、納税者訴訟など住民のチェック機構も日本よりははるかに整備されている(アメリカの場合、法制度上、日本の国にあたるのは州に該当しますので、州を念頭に置いています)。そして、行政活動の源泉となる税の使途に関する法的チェックは日本の比じゃないと思います。なぜなら、国にだって、少数者でも納税者訴訟をおこせる制度なども用意されているいるからです。
しかし、地域といっても、土地利用規制を通して、地域にすめる階層も富裕層、貧困層と歴然と分かれている。だから、地域的同質性はすごく強く、地域との関係から言えば、議会は地域の利害代表でもあり、それゆえ、税の使途を通して、政治への関心も高く、選挙の投票、住民参加もさかんともともとれる。
な〜さんのいう民主主義が日本社会で実現できるためにはどういう条件が必要か? 僕はこの点も知りたいです。
その意味ではKORNさんが「日本の民主主義に対する違和感」と述べられている点にも興味があります。その点、コメントいただければ幸いです。
この前の国会で、地方自治関連の法規が大改正され、地方公共団体ができる仕事が大幅増えました。な〜さんのいわれる民主主義に住民が努力するいい契機になるか? 僕はその点も興味を持って見守っています。ただ、財源配分に関してはほとんど変わっていません。な〜さんの論点考えるいい機会でもあると思います。
>私の意見はこのスレッドの論点からずれているのでしょうか?
今述べた趣旨からいえば、的を得た指摘であると僕は思いました。
な〜 です。
私は学生時代真面目に講義を聴く学生で無かったので
(実は今更ながら悔やんでいますが、もっと勉強すればよかった
でもなぜかその頃ってそういうことに興味が無かったのです。)
専門用語が出てくるとよくわからないのですが、
例えば日本では農業を行うにしても、田植えや稲刈りは集団でしていたのでは
ないでしょうか?災害時には集団で対処していたのではないでしょうか。
そしてその集団の目的は一つな訳です。
そういうのが民主主義なのかな、って思うのですが。
最近は価値観の多様化で集団の目的を一つにすることが
難しいのかもしれません。
でもみんな自分のことしか見えていないからのような気がします。
例えば前に書いたどぶ掃除、確かにどぶは家の外にあって
自宅とは関係ないかもしれないけど、自分の家からでた汚水が流れていくわけです。
それを清掃することは自分たちの役目かな?って。
ゴミ収集所も町内会で順番で清掃してきれいにしているわけです。
そんなの行政の仕事だよ、市役所の職員にやらせればいいよ、って
そんなものかな?
そういう意識改革からさらにはもっと大きな社会つまり市町村、都道府県、国
という風に広がっていけばいいと思っているのですが。
このスレッド、三三のスレッドと並行してやってみましょうか。面倒くさいけど面白そうだし。
私もあちらのスレッドに書き込みます。興味ある人は並行して見てください。
それにしても、しゅうちゃんのレスいつもながら勉強になります。個人的にはもう書くことが
無くなってしまった気もするのですが(笑)、スレッドを立てた以上そうもいきません。
とりあえず私の感じる「日本の民主主義に対する違和感」について書きます。
あ、そのまえに、
な〜さん、こんにちは。早速のレスありがとうございます。
国民一人一人が、な〜さんのように心がけたらその国はきっと素晴らしい国に
なるでしょうね…。でもな〜さんのお考えは民主制の国じゃなくても、極端な話
君主制の国においてもやるべきことだと思うのです。
>国会でいう民主主義は民主主義でなく単なる多数決の論理、
>民主主義とは思えない。
実を言うと、この言葉に私は違和感を感じるのです。
(な〜さんのお考えには全面的に賛成です。誤解なさらないで下さい。
この後の私の論の展開がやり易くなるので、ちょっと引用させていただきます。)
よく与党が野党の反対を振り切って強行採決したときなんかにも
「与党に“数の論理”で押し切られた。こんなの民主主義ではない」
という言葉をよく耳にします。しかし良く考えてみると、
数の論理すなわち多数決こそが民主主義の本質ではないでしょうか。
49%より51%の満足を優先させるのが民主主義です。
決して100%を満足させる制度ではありません。
「少数派を無視するなんて恐ろしい。この国は悪い方向へ向っている」
という声にも私は疑問を感じます。私からしてみれば51%(多数)より49%(少数)
の満足を優先させる制度の方が、どちらかといえば恐ろしいです。
民主主義が誤解される原因は“少数意見の尊重”という言葉にあると思われます。
この言葉の意味を「少数の者が納得するまで決断しない」ととらえている人が多い
ようですが、これは民主制(民主主義)対する大きな誤解でしょう。
(少数意見を無視しろ、という意味ではありません。これについては後で述べます)
実際のところ、歴史上「100%の賛成で意思決定する国」は存在し得なかった。
会社員や経営者の人なんかは良く実感できると思うのですが、組織にとって
最も悪い状態は“決定すべきことをいつまでも決められない状態”です。
しかし100%の賛成で決断出来ることなんて滅多にありません。
どこかで「決断」しないといけない。
この決断の方法として通常2つの方法があります。
1つは「一番偉い人に決めてもらう方法」、もう一つは「多数決で決める方法」です。
言い換えれば前者が「君主制」、後者が「民主制」だと言えます。
よく「君主制」と「民主制」を正反対のものと考えている人が多いようですが、
私はそうは思いません。どちらも単なる意思決定のシステムだと考えます。
一人で決断するのが「君主制」、51%の賛成で決断するのが「民主制」です。
どちらも一長一短あり、どちらが正しいとは一概には言えない。
要は、どちらも“決断”するための手段だということです。
よって、その国の発展段階によってどちらの選択もあり得ると思います。
次に「少数意見の尊重」について書きたいのですが、長くなったので後にします。
(実は・・・まだ仕事中なんです(笑))
>このスレッド、三三のスレッドと並行してやってみましょうか。面倒くさいけど面白そうだし。
私もあちらのスレッドに書き込みます。
う〜。話題提供のつもりで書いたんですけど、な〜さんとKORNさんとのチャットになりそう(笑)。
KORNさんと議論をするのはいつも仕事の上でも刺激になります。
民主主義には決断の論理が必要である。この点ではKORNさんと意見は一致します。
>数の論理すなわち多数決こそが民主主義の本質ではないでしょうか。
この点で、KORNさんと僕の意見は異なると思います。むしろ僕は「最大多数の最大幸福」という原理に裏付けられた19世紀型の民主主義の本質が、数の論理すなわち多数決こそが民主主義の本質であると考える民主主義と思っているんです。20世紀、現代型民主主義の本質は「審議を尽くすプロセスを慎重に」ということにあると思っているんです。その点では、「少数意見の尊重」のありかたをどう考えるのかとかかわる問題となります。
審議を尽くすプロセスを慎重に、ということはどういうことかといえば、100%を満足させるに越したことはない。しかし、審議を尽くしたうえで49%より51%の満足を優先させても決断が必要とするのが民主主義ならやむをえないとする考え方です。
ちょっと、KORNさんとそのあたりから意見がことなるかな? つまり、集団のなかでそれぞれの個人の考え方、価値観が多元化し、全員の意思の合致をみることも難しい。価値は相対的に尊重されるべきであるから、むしろ、その決断のプロセスが適切であれば、決断そのものも妥当とみなすという考え方の下に、現在の民主主義の本質があると思っています。
たとえば、公聴会の開催を義務付けたうえで、行政決定し、議会の議決を経なければならないということを法律が義務付けていた場合、公聴会を開かず、行政と議会だけで決定を下してたらその決定が無効になる場合があります。無効とされたら、再度、公聴会を開き、行政と議会が同じ決定をしてもそれは問題ないとされています。
なぜそんな面倒なプロセスをとるのか? いくつかの理由がありますが、上にあげた理由と51%の賛成でも49%の人にも決断の責任をとらせる弊害をとらせる制度が民主主義であることと、責任のとりかたが実にあいまいになりがちなのが民主主義という認識に裏付けられているからだと考えています。つまり、民主主義の本質は多数決原理、オールマイテイではないという認識があるからだと思います。
このような決断プロセス重視の考え方は最大多数の最大幸福の原理の弊害の是正として、今世紀初頭から、英米で編み出された原理で手続的正義が民主主義には必要とされ、日本の行政法規のなかにも取り入れられるようになった原理です。ぼくはこれを最大多数の最大幸福の原理の現代的修正であると考えています。そして、現代型民主主義の本質は「審議を尽くすプロセスを慎重に」と考える所以です。
一応、今日はこのへんで。ちょっと眠くなってきました(笑)。
しかし、
な〜 です。
またとんでもないこと言い出すかもしれませんがいつも疑問に思っていることが
あるのでこの際教えていただければ幸いです。
しゅうちゃんさんの
>「最大多数の最大幸福」という原理に裏付けられた19世紀型
>の民主主義の本質が、数の論理すなわち多数決こそが民主主義の本質であると考える民主主義と思っているんです
なるほどと思ったのですが、今の日本の議会政治(と言うのでしょうか)にそもそも
民意が反映されているのでしょうか。
投票率もさることながら選挙の際の政策論争がなく、どの政治家が何を考えているか
わからない。
ひどいとき(多くがそうか?)選挙の公約が有名無実化し、議会になると
全然違うことが起きてしまう。
また法案決定も納得できない審議会や議会を経て決まっている。
(十分な議論がなされたとはとうてい思えないし、寝ている議員も多いらしい
CATVで議会が放映されるようになって寝る議員が減ったという話は
よく聞く)
それでより住民の意見を政策に反映させてほしいというので
公聴会なりが必要になってきたようなきがするのですが?
公聴会なり住民投票というのは議会制度そのものの欠点から行われるように
なったのか、あるのかそれを運営している方法に問題があるのか、
どのように考えるべきなのでしょう
それから私は医療に携わっているのですが最近の福祉は明らかに後退しているな
と思います。で、患者さんもそのことが不満です。でも選挙の時は例えば寝たきりの方、痴呆の
方は投票に行けない、出来ないという現実があります。
細かいことですが、何とかならないものかと。
(これは21世紀の民主主義のスレッドが適当かな?)
しゅうちゃん、な〜さん、夜遅く&朝早くからレスありがとうございます。
お二人の意見を読んで、書き込みたいことが沢山あるのですが、前回の文章に補足する
ことがありますので、まずそれから書きますね。
民主主義に対する先入観を取り除くために、かなり極端な表現をしてしまいました。
なかには私のことを多数派主義の体制側(?)の人間だと思われている人もいるかも
しれませんが、実際の私は少数派に属する場合の方が多いです。
(選挙でもここ6〜7年、与党には票を投じていません)
だから私も「少数派」の悔しさは良く理解できます。しかし、多数派には多数派になる
だけの理由があることが多い。やはりそれなりの説得力があるのです。
少数派を満足させたいのなら、むしろ君主制の方が向いています。
なにしろ「王様」ひとりを説得すれば良いのですから。
私の感じる最大の違和感、それは、
「日本人は民主主義を選択しながら実は君主制を求めてるのではないのか?」
ということです。ちょっと誤解されそうな文章ですが、最後まで読んで見てください。
日本人の多くは
「政治は良く分からん。選挙も面倒くさい。立派で信用が出来る“偉い人”に任せておけば良い」
と思っているのではないでしょうか。しかしこの考えは「君主制」のそれであり、「民主制」とは
正反対の考え方です。(君主制がいけないとは言いません。それもひとつの選択肢ではありますが)
「民主制」は国民に努力を要求する制度です。主権者は国民なので全ての権利を持つと同時に、
全ての責任を負います。「立派で判断力のある偉い人」におまかせできない。
楽をしたければ「君主制」の方が良い。「偉い人」が全てやってくれます。
そのかわり偉い人は大変です。全ての責任を一人で負わなくてはなりません。そのうち自分も
楽をしたいと思うでしょう。しかしそうなれば「君主制」は終わりです。主権者が楽をしたら
その時点でその制度は機能しません。よって民主制においては主権者である国民が楽をすれば
民主主義は機能しなくなるということです。
・・・「少数意見の尊重」にいく前に随分話が長くなってしまいました(笑)
このテーマは本気で語りだすと、凄いことになってしまいます。こんなに文章が長いと他の人が
入りにくいかな?居酒屋トークのはずだったのですが…。すみません私はこんな文体しか書けない
のです(笑)。しかしここは一応居酒屋なので、気軽な書き込みお待ちしてます。
今日はこれから、子供と公園にお散歩に行ってきます。
その後で「少数意見の尊重」及び「なぜ日本人は政治に対する意識が薄いのか」について語ります。
>今の日本の議会政治(と言うのでしょうか)にそもそも
>民意が反映されているのでしょうか。
>投票率もさることながら選挙の際の政策論争がなく、どの政治家が何を考えているか
>わからない。
>ひどいとき(多くがそうか?)選挙の公約が有名無実化し、議会になると
>全然違うことが起きてしまう。
>また法案決定も納得できない審議会や議会を経て決まっている。
>(十分な議論がなされたとはとうてい思えないし、寝ている議員も多いらしい
>CATVで議会が放映されるようになって寝る議員が減ったという話は
>よく聞く)
>それでより住民の意見を政策に反映させてほしいというので
>公聴会なりが必要になってきたようなきがするのですが?
な〜さん、率直、かつ忌憚のない見解読んですごくうれしく思いました。 議会制っていうものは
代表を通して民意が反映されるであろうという仮定のうえに組み立てられ、展開されてきたものであると
ぼくは思っています。
運営の仕方によっては、民意の反映どころか、逆の方向だって走りかねない。そういうものを最初から含んでいる制度であるとぼくは考えています。なぜ、そうなるのか、政治学者の人たちがさまざまな指摘していますが、さまざまなエゴが複雑に絡んでいる結果だと思いますよ。政党間のエゴもあるだろうし、地域エゴもあるだろし、利益団体のエゴもあるだろうし、行政内部間のエゴもある。 ただ公約という形で選挙民に政策を約束し、信頼関係のうえに選挙民から選ばれた代表者だって、議会の中では会派を作らなければ議案の提案権すらない。会派、つまり集団を作ることから、自らの意思を実現するために必然的にそのエゴに巻き込まれざるを得ない。 それが民主主義の一面だと思うし、
選挙民と代表者の信頼関係っていっても、利害というかエゴというものが介在されていない限り、代表民主主義における選挙民と代表の公約を通した信頼関係も仮定のうえの存在にしかすぎないと思いますよ。
う〜ん、ぼくはな〜さんの民主主義に対して抱いていらっしゃる疑問もっともだとおもいますよ。そういう形でも運営される可能性があるのが民主主義と考えてはいかがですか? 冷めてものごとを見るのが学者の役割、熱い思いを民衆に訴えて政治を動かすのが政治家。その熱い思いと信頼関係のなかに、な〜さんの指摘される落とし穴があるということかな?
所用で出かけますので、KORNさんに対するレスは後ほど書かせていただきます。よろしく、KORNさん。
KORNさんこんにちは、ひさびさにスレッド出すってこのことだったのね。
なんとまあ難しくて、頭の悪い私にはちんぷんかんぷんです。(笑)
政治についてもちんぷんかんぷんです。
だから、わからないことは聞いています。色々な政策などについて、
なんの目的で? どういう方法で? いつまでに? その効果はどういうもの?
下関については「みらい」を読んだりしています。
議会や会派や法律のことまではよくわかりません。
せめて、少しでもわかろうという気持くらい持っておこう・・・くらいかな
僕は頭の悪いアナログ人間なので、人に聞くことしかできません。
でも、それには大きな欠点があります。
聞く人が偏れば、知識も偏ります。
だから日本の民主主義、下関の民主主義に望むことは
この頭の悪い私でも公平な知識が取り入れられるような、情報公開の場を整備して欲しいなという感じです。
そして、議会で何かを決めるときに誰がどういう意見を出していると公開せずに、こういう案があります。という
案だけをいくつか選択できるようにして、公開し住民投票をやってみると、面白い結果が出るかも。
あくまでまず正しい知識があっての事なので、今すぐやっても滅茶苦茶な回答しかでてこないかもしれませんが・・・
くりがしらさん、こんにちは。
実を言うと、私も政治の細かいことなんてちんぷんかんぷんです。(笑)
よくわからないので、いつも単純化して理解するようにしています。
だからこのスレッドで述べている私の意見は「民主主義」をおもいっきり単純化して表現
しています。多分しゅうちゃんなんかは苦笑いしながら見てるのではないでしょうか(笑)
政治・民主主義・多数決etc、その本質はぜんぜん難しいものではないと思います。
もしこのスレッドが難解に見えるとしたら、それは政治が難しいからではなく、私の文章が
小難しいからでしょう(前にも書いたけど、私はこんな文体でしか書けません(笑))
だから実際の生活における政治への関わり方も難しいことではありません。
な〜さんやくりがしらさんがおっしゃっていること、それが正解だと思います。
実を言いますと、私がこのスレッドで最終的に言いたかったことは、な〜さんが最初のレスに
書いてあることなのです。最初見たときヤラレタ〜と思いました(笑)
私が一生懸命考えて到達した結論を、な〜さんやくりがしらさんは本能的に理解されていた
のですね。まったく恐るべし・・・
>冷めてものごとを見るのが学者の役割、熱い思いを民衆に訴えて政治を動かすのが政治家。
う〜む、なるほど。私も「民主主義」を冷めた目(でも心は熱いよ!)で見てます。
決して100%を満足させる完璧な制度だとは思ってません。最悪49%は不満足を感じる制度
ですから。でもそれは欠陥ではなく、もともとそういうものだと思っています。
完璧ではないけど、人類が考えた“決断”の方法としては最も合理的だと考えます。
>審議を尽くすプロセスを慎重に、ということはどういうことかといえば、100%を満足させるに越したことはない。しかし、審議を尽くしたうえで49%より51%の満足を優先させても決断が必要とするのが民主主義ならやむをえないとする考え方です。
これについては全く賛成です。時間の許す限りあらゆる審議を尽くし、そのための法律を整備
する。これは民主主義をより円滑に運用するために必要不可欠だと思います。
しかし、民主主義の本質は「51%で決断できる」という点にあるのではないでしょうか。
人類は初めて「集団生活」を営みだして以来、ずっと「決断」の方法を模索し続けたように
思います。最初は「神」に決断をお願いしていた。「神」なら間違いを犯さない。だから任せて
おけば心配ないと。君主制における「王様」も同じような役割です。だから通常「王様」には
「神」の属性を持たせることが多い。
しかしこのやり方は全員がその「神」を信じないと機能しない。色々な価値観の人が増えて
神の「決断」に納得しない人があらわるようになると、次は人間同士話し合って「決断」する
ことにした。でもどんなに審議しても、色々な法律を整備してみても、最後に決断するとき
誰もが一抹の不安を感じる「本当にこの決断でいいのか」と。
この不安に対する最良の解答が「多数決」ではないでしょうか。
51%以上の賛成、これならどんな国の人も、どんな宗教の人も、納得せざるを得ない。
それ以上に万人を納得させる方法はないからです。
したがって、民主主義最大の利点は「51%の賛成で最終決断できること」、と考えるべき
です。これを「51%しか満足出来ないから問題がある」ととらえるのは民主主義の特性を
大きく見誤っていることになると思うのです。
しかし、決断された後も49%の反対意見は主張し続けることが出来る。審議の際49%の
反対意見を十分配慮する、というのも「少数意見の尊重」だと思いますが、私はどちらかと
いえば、「決断」の後に敗者復活の機会を与えているのが、真の意味での「少数意見の尊重」
だと思います。もしその決断が失敗に終わっても、49%の反対意見という別の選択がまだ
次に残されている。これが民主主義の凄いところです。
その民主主義がなぜ日本でうまく機能しないのか?
私は「日本人の民主主義観の間違い」を指摘しましたが、実はもうひとつ制度上の問題を
指摘したいと思います。それは税制度上の問題です。
・・・というところで、またまた長くなってしまったので、ちょっとお休みします。
(ここまで読んでくれてる人なんているのだろうか(笑))
な〜 です。
しゅうちゃんさん
非常にわかりやすくて勉強になりました。
インターネットってどこの誰かわからない相手でも親切に教えてくれる人がおられるし、
また本当だったら市民講座みたいところへ入学しないと教われないことを教えていただけるので
改めて感動しています。
でも、じゃ実際議会民主主義の落とし穴をどう埋めるかは難しくてわかりませんが。
最後にまた暴言かもしれませんが、
よく国会議員等のの方が無理矢理法案を通したときなど
「我々は選挙で選ばれた。国民を代表しているんだ」と言われますが
健全な(こういう言葉が適切かどうかはわかりませんが)議会民主政治がなされていない
ケースにおいてはこれは詭弁にすぎないといつも感じております。
KORNさん
こんばんは
>実を言いますと、私がこのスレッドで最終的に言いたかったことは、な〜さんが最初のレスに
>書いてあることなのです。最初見たときヤラレタ〜と思いました(笑)
実は私の最初に書いたコメントは以前から言いたくて言いたくてうずうずしていた
内容なのです。
で、このスレッドを見た瞬間「やった」と思ったのでした。(^_^)
>(ここまで読んでくれてる人なんているのだろうか(笑))
読んでます
>だからこのスレッドで述べている私の意見は「民主主義」をおもいっきり単純化して表現
>しています。多分しゅうちゃんなんかは苦笑いしながら見てるのではないでしょうか(笑)
KORNさん:
学者と呼ばれる人の多くもなにかを理論化するときは思い切り単純化して考えると思いますよ。組み立てた理論、理屈に矛盾するような現象は意識的に捨て去ると思いますよ。そうでなければ、理論なんてできっこないと。特に、僕の場合はそうです(笑)。
>日本人の多くは
>「政治は良く分からん。選挙も面倒くさい。立派で信用が出来る“偉い人”に任せておけば良い」
>と思っているのではないでしょうか。しかしこの考えは「君主制」のそれであり、「民主制」とは
>正反対の考え方です。(君主制がいけないとは言いません。それもひとつの選択肢ではありますが)
>「民主制」は国民に努力を要求する制度です。主権者は国民なので全ての権利を持つと同時に、
>全ての責任を負います。「立派で判断力のある偉い人」におまかせできない。
実は僕も同じ疑問を持っています。なぜなんだろうかな? そんな疑問がいつも頭のなかから離れません。ぼくはそれを草の根民主主義に対することばとして草の根保守主義によるからでは?という仮説の下で学生たちに説明しています。つまり、有力者によって支えられた政治という意味においてです。立命館大学の宮本憲一教授も同様な見解を述べられていますので、日本の政治の現状を草の根保守主義と考える学者先生も少なくないと思います。
町内会の運営は町内の有力者に支えられ、町内の要望事項は町内の有力者を通して市町村にあげられ、それを実現するために代表者を議会に送り出す。そういう仕組みが上は国政まで作り上げられている。それが政治の現実なんだと分析されているんです。
町内会、子ども会から民主主義を考える、というな〜さんの見解を拝見し、草の根保守主義という考え方を真っ先に思い浮かべました。考える視点が共通しているという意味で。
もちろん、な〜さんは草の根保守主義の見解とは見解を異にされるとは思いますが、民意の反映の仕方に関心をもたれているのも当然かなとも思いました。町内会の民意の反映の仕方の現状はどうなんでしょうか?実は、ぼくはこれがよく分からないんです。なぜなら、夫婦共働きで町内会に入っていないんです。このあたりから、KORNさんの仮説を考えてみたいのです。さしさわりのない範囲で教えていただければ幸いです>な〜さん、KORNさん。
>民主主義の本質は「51%で決断できる」という点にあるのではないでしょうか。
この点はおおいに意見交換したい点ですね。ただ、長くなりそうなので、一休みすることにしましょう。
僕も読んでいますよ>KORNさん
な〜さん:
一生学生であると自認している私、かなり照れてます。むしろ、違う領域の人と意見交換をして勉強させていただいている気持ちはぼくの方が強いです。
な〜 です。
>草の根保守主義によるからでは
なるほど、と言う気がしました。
私はいわゆる農村地区に住んでいて、そこで民主主義を考えています。
実は私も疑問を持っていたのです。
日本はかつて君主制(領主がいた)だったのになぜ農民の間で
民主主義(といっていいのでしょうか)があったのか?
(あったといっていいのでしょうか?)
農民は自分たちの稲作の相談は出来ても年貢やその他政策に関することは口出しできません。
だからある程度のことは自分たちで決めて、一部は領主に依存する、
そういう形態だったのかな?
町内会の民意が市や県にどのように反映されているか?
私も役が当たっていないのでよくわからないのですが
まず何かいろいろ助成金が付いてくるようです。
例えば公民館の運営費、婦人会の運営費等など。
それから市道に融雪を引くとか、照明をつけるとかかな?
また誰かに聞いてみます。役員会で何を決定しているのか?
なぜ共産主義(社会主義)が民主的で資本主義が遅れている。なのですか?
なぜ自民党=悪で、社会党&共産党=善なのですか?
なぜ民衆のいうこと=絶対で、行政&資本家のいうこと=悪なのですか?
なぜ米国より=非平和的で、北朝鮮&中国&ロシアよりが平和的なのですか?
以上のてんについて教えてください。
な〜 です。
先ほど自治会長さんに聞いてみたのですが
(詳しく聞いたわけではありませんが)
町内会は
市から配布される資料を各家庭に配布したりしています。
(市民と市政や回覧板等)
それから各地区から出る陳情をまとめて市の該当する
課に陳情します。
このとき場合によっては市会議員さんに同行を求め市長さんに
陳情することもあるそうです。
で、どんなことが陳情としてあがるかというと
どこどこの排水溝がどうの、道路がどうのということが
多いみたいです。
>実はもうひとつ制度上の問題を指摘したいと思います。それは税制度上の問題です。
ちなみにこれは、「源泉徴収制度」のことです。
今日は時間が無いのでまた今度熱く語りたいと思います。
>人類が考えた“決断”の方法としては最も合理的だと考えます。
>民主主義の本質は「51%で決断できる」という点にあるのではないでしょうか。
KORNさん:
こう単純化しようと思っても、なかなか単純化できないのがしゅうちゃんのいけないところかもしれません。
ですから、野に咲くれんげ草のようなちっぽけな学者の殻をなかなか超えれない(笑)。でも、そのれんげ草が大好き
です。
法律屋がまず頭の中に浮かれるのが誤判のこと。人の判断に誤りはつきもの。だから、審理(審議と置き換えていいと思います)のプロセスをより慎重にするために近代民主主義社会の裁判は三審制を置いた。最高裁の裁判官は15人。高裁までの法廷では最大限3人裁判官で判断を下す。
でも、誤判は必然的に伴う。たとえば、高裁までの法廷で2対1で被告人有罪。最高裁でも8対7で被告人有罪。判決は確定し、被告人は罪に服す。そして、10年後、あるいは20年後、被告人を無罪とする決定的証拠が見つかった。
確定裁判によって、刑罰に服させることというのは明らかに国家の行為であるし、多数決原理に従って判決が下されたわけなんですよね。こんな場合、2対1の1のほうに、8対7の7のほうに真実があったということは、結果的にであったとしても誰しも思うのじゃないかな?
君主国家では神の名のもとに国王が裁判をおこなった。下した判断の正当性を論証する材料に神の名が使われたにすぎないのであって、民主主義国家では国民が判断を委ねた裁判官がそれをおこなう。その正当性は法と正義に代わっているけれど仕組みは同じとも思うのです。
その場合、裁判をやり直して本人の名誉を回復させても、本人の受けた苦痛を金銭賠償しても、本人が失ったものは大きすぎる。取り戻せるものじゃない。テレビの逃亡者のドラマで取り上げられたリチャード・キンブル事件などは名誉回復に50年近くもかかった。いまわれわれが考えられる方法はそのような方法しか思いつかないことも一方では認めなければならないのも事実です。ぼくなんかは多数決原理を考える場合、仕事柄、そういう視点からから入ります。そして、専攻領域の関係から、行政と議会の決断プロセスを考え、自問自答するという結果の繰り返しです。
こういう場合を想定すれば、多数決原理が最も合理的であると考える気にはどうしてもなれないんです。
だからこそ、審議を尽くすプロセスを慎重にという考え方の下に20世紀の民主主義国家の諸制度は作り上げようと努力されてきた。20世紀の民主主義の本質を審議を尽くすプロセスを慎重に考える理由の一端はそこに由来します。
な〜さん:
レスどうもありがとうございます。なるほど。な〜さんと同じ疑問について、明日、僕なりの視点を述べ、もう夜も遅くなりましたので意見交換したいと思います。
>学者と呼ばれる人の多くもなにかを理論化するときは思い切り単純化して考えると思いますよ。
ああ良かった、間違ってなかったんだ(笑)
私は大学時代、ゼミの教授から「君の考えている資本主義は19世紀型だ」と言われた
ことがあります。しゅうちゃんが前のレスで述べられた“19世紀型の民主主義〜”の
くだりを読んで、「ああ、また言われてしまった…」と思ってたんです(笑)
どうやら私は基本的に単純な人間であることは間違いないようです。(照笑)
>こういう場合を想定すれば、多数決原理が最も合理的であると考える気にはどうしてもなれないんです。
これは難しい問題ですね。人間が人間を裁くという行為は「合理性」などと言うモノサシ
ではとてもじゃないけど図れない。たとえ人間が「多数決」に変わる、より合理的な手法
を手に入れたとしても、この問題は解決することは無いでしょう。
このスレッドに書き込んでいるうちに気が付いたのですが、どうやら私は
「どちらが正しいなんて人間にはわかるわけない。
しかし決断できずに何もしないより、
とにかく何かやってみた方が良い結果に結びつく」
という考えを信じていることに気がつきました。たぶんそのせいで、たとえ49%が不満
でも、51%の満足を信じて決断する「多数決」という手法を信じられるのだと思います。
あ、「源泉徴収制度」について語る時間が無くなってしまいました。
この制度こそ、日本人が政治に関心を持てない(=民主主義が根付かない)原因になって
ると思ってます。また後日語りましょう。
な〜 です。
>この制度こそ、日本人が政治に関心を持てない(=民主主義が根付かない)原因になって
>ると思ってます。
おっ、そういえば私がこんなに世の中に興味を持つようになったのも
自営業を始めてからだな。
なるほど、と思って次の話を期待しています。
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月06日 12時01分41秒
>人間が人間を裁くという行為は「合理性」などと言うモノサシ
>ではとてもじゃないけど図れない。たとえ人間が「多数決」に変わる、より合理的な手法
>を手に入れたとしても、この問題は解決することは無いでしょう。
KORNさん:
レスありがとうございます。刑事裁判に関しては僕も同様の見解を持っています。最初から、答えをあきらめているのか、と尋ねられれば、刑法学者に尋ねてくれと逃げの一手をうち、「ホット」胸をなでおろすというところでしょうか? でもね。国家が国家や地方自治体を裁く、具体的に言えば、司法が行政や立法の行為を法と名のもとで裁く、違憲立法審査権の場合が典型例ですけど、これをどう考えるか? いつも、僕たちはこの問題に直面するわけなんですよ。刑事裁判とそれとは本質的異なるという見解も成り立ちうるけれども、国民の意思の現れと仮定された法(こう考えないと現代国家の制度そのものが否定されると考えれば)の名のもとに司法が判断を下すという意味では、刑事裁判も行政裁判も変わらないと僕なんか考えるものですから、悩むこと悩むこと(笑)。
そのような代表例としてニューデイール期の社会立法の例があります。ご存知のようにニューデイールの社会立法によってアメリカは大恐慌を抜け出すきっかけを作ったのですけど、当初、連邦最高裁はニューデイール期の社会立法をことごとく「違憲」であると判断し、ニューデイール政策実施の障壁を作り出したんです。最高裁判所の裁判官の意見も分かれ、多数意見で違憲と判断を下したということなんです。ルーズベルト大統領は違憲と判断した裁判官の首を挿げ替えることによってこの問題を最終的に乗り切った。このケースでは三権分立をどう考えるかという別の問題はありますけど、もう一つの問題は民意をどう考えるのかという問題もありますよね?
つまり、15人の裁判官の判断が、純粋に良心と法に基ずいて、(法の判断を委ねられたという意味では民意とも言えると思います)社会立法も代表者が決定したという意味では民意の現れととれる。そして、議会のほうがはるかに判断する人数が多い。
学生にはこのケースも引き合いに出して民主主義、多数決、少数意見をどう考えるか? いつも考えてもらっています。
>どちらが正しいなんて人間にはわかるわけない。
学者としては無責任といわれるかもしれないですが、ぼくも同意見です。だから、プロセスの問題で解決したほうが良いのではと考えるのかもしれません。いずれにしても、多数者の少数者に対する起こりうる結果に対する責任は残ることは確かですが・・・。
な〜さん:
レスもう少しお待ちくださいね。
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月06日 22時03分43秒
な〜さん:
お待ちどうさまでした。民主主義の原型を町内会、子ども会に求めていく。心の中ではかなりの抵抗がありますが、そこに求めていくのがやっぱり自然な考え方だと思います。なぜ抵抗があるかといえば戦前の向こう三軒両隣、隣組制度を思い出すからです。でも、だから、戦後も同じ尺度ですべてを見ることもするつもりはありません。コミュニテイの原型として町内会や子ども会から民主主義を考えるのが自然だと思います。
「民主主義の学校」の例として、高等学校までで教えられてきたアメリカの地方自治体の例をとりながらこの件について僕の意見を述べます。アメリカでは、富裕な階層や中間階層の住む人たちと、貧困層の住む人たちのコミュニテイにはっきり分かれる傾向があるように思います。なぜ分かれるかといえば、貧困層の人たちが富裕な階層や中間階層の住む人の地域に入り込んで住むことを富裕な階層や中間階層の人たちは極端に嫌うからです。なぜなら、税負担が増えることが目に見えていると考えるからです。
ですから、新しく家を建てる場合、2000平米以上の土地でなければ、家を建てれないというような条例を地方自治体が制定する場合も多いです。こういう側面からもコミュニテイの環境に関心が払われる傾向が強いという一面もあります。そういう地方自治体のコミュニテイでは良い意味での個人主義が貫かれている場合が多いと思います。
つまり、自分のうちの周りの環境は自分が責任を持って処理するということです。たとえ、自分たちがそれができる暇がなければ、業者の人に頼む。こういうパターンだと思います。町内会というような組織を作ってどぶ掃除、草むしり?、私が勉強した限りではあまりないと思います。
そうしたら、コミュニテイや地域共同体に利害がかかわるような関心事はどうするか?コミュニテイや地域共同体に利害がかかわるような共通のニーズを満たすために、地方自治体の中や、地方自治体にまたがって、そのことだけをする準地方自治体をつくることもあります。そして、これも税金という原資でそのニーズを満たすことになっています。
そうしない場合は自分たちの要求を実現するため、自ら議会に代表を送り出すか、自分たちの利益を実現してくれる代表に投票をするかになると思います。ここは日本と共通項があるように思います。こういう形で選ばれる代表は、選挙との関係で、地元の利益の実現に熱心です。これも日本と同じだと思います。しかし、ここに問題の原点があると思います。
つまり、議会でチェックすることは行政の全般にわたります。そして、行政の内容も高度化、専門技術化しています。地元の利害にかかわることならいざ知らず、その他の事項に関して、最初はみなずぶの素人の人が多いです。自然と行政の担当者の説明に頼らずをえないということになるのではないでしょうか? また、行政の担当者も自分たちの提案を承認してもらうこととひきかえに、地元へのいくぶんかの利害誘導をする。こうであれば、最初から行政全般をチェックすることを期待することは難しいのではないでしょうか? また、行政への圧力をかけれるパワーがあるものが勝ちという状態になるのではないでしょうか?民意が議会に現れないとみえる場合もある、それも当然だと思います。
現代の民主主義制度ってそういう危険性を含んでいるものであると考えたほうが僕は良いと思っているんです。
でも、富裕な階層や中間階層の住む人が多い地方自治体では自然と有効なチェックが働きがちなんですね。そういう現実があっても、自分たちが払った税金が有効に機能していない、と思ったら、減税を求める住民投票など直接請求の方法が日本よりもはるかに多く用意されている。特に、住人が富裕な階層や中間階層ゆえ、税の使途には敏感です。
源泉徴収制度などもないから、なおさらです。
>この制度こそ、日本人が政治に関心を持てない(=民主主義が根付かない)原因になって
>ると思ってます。
ぼくも賛成です。「うんだな〜」といいながら、居酒屋モードにここから入れると思います。
今日はこのあたりで。
な〜 です。
しゅうちゃんさん
いつもありがとうございます。
またとんちんかんな話かもしれませんが、
民主主義=議会民主主義ではないんですよね。
民主主義と個人主義は違うのですよね。
アメリカ人は個人の主義主張を貫くことが自らの人権を守っている証
と思っているような気がしてなりません。
例えばコソボにしても、イラクにしてもどうみてもアメリカの国益につながるから
空爆したと思えます。相手や周りの事情は関係ありません。
つまり全員(ここでは世界を指します)の考えをまとめようという気はないんです。
(たぶん能力もないと思っています。)これは暴言か?
これはしゅうちゃんさんのいわれるアメリカは個人主義を貫くことを良しとしている
からだと思うのです。
みんなをまとめると言うことは考えていないのでは?
とするとアメリカ型の民主主義が本当の民主主義かと、
もしくは日本の事情に即した民主主義といえるのかと?
今のアメリカの制度から直感的に明治時代の貴族院制度(でしたっけ?お金持ちが議員になれる
という制度)を思い出してしましました。
日本は昔から「和を持って尊しとする」で、争いごとをなるべく避け円満に
物事を解決することを良しとしてきたと思っているのです。
物事を円満に解決するには相手の立場を尊重しないといけません。相手を
知らないとわかりません。向こう三軒両隣がわかっていればある程度
妥協を見つけることは可能になるのではないでしょうか。
そういう意味で最近日本の向こう三軒両隣も捨てたもんでないな、と思っています。
(昔はそういうものは煩わしくてしていませんでしたが)
民主主義の制度が一杯欠点を持っているのがしゅうちゃんさんの説明でわかったのですが
現段階では運営上で回避しないといけないのではと感じています。
どうでしょう?
とするといかに国民の意識改革を求めるか。
KORNさんのお話も聞きたいで〜す。
>とするといかに国民の意識改革を求めるか。
これが一番難しいんですよね…。別に苦労して勝ち取った「民主主義」でもないし。
だからいくら「政治に、民主主義に関心を持とう」なんて言っても普通の人は関心が
持てない。それにしても日本人は政治に関心が無さ過ぎますね。
これはなぜか?通常最も「政治」を肌で感じるのは「税金」を支払うときです。
ところが日本人の多くは(サラリーマン層)は納税意識が極めて少ない。
なぜなら自分で意識しない内に会社が税金を支払ってくれているからです。
これが「源泉徴収制度」で、先進国の中でも日本しか実施してない特異な制度です。
この制度おかげでサラリーマンは面倒くさい(?)確定申告をしなくて済むのですが
かわりに納税意識も失われます。税金を支払っている意識が無いので、当然のことながら
税金の使い道にも興味がありません。
だから「地域振興券」を貰ったりすると、「ラッキー、貰えるものは使いましょう」
などとお気楽に考えてしまいます。(元は税金なのに…しかも利子付きの)
以前、消費税が3%から5%に上がったとき大騒ぎになりましたが、これは消費税が
自分が直接支払っている感覚がある、ということと無関係ではないでしょう。
(個人的には消費税より、他の税でもっと問題にすることがあると思うのですが)
このように源泉徴収制度は確実に税を取れる上に、国民の税金の使い道への関心を薄める
効果があるので、政府にとっては実に都合の良い制度です。だから絶対に廃止しようとは
しません。「源泉徴収制度を廃止しよう」と主張する政治家なんて聞いたことありませんね。
逆にいえば、そんなことを言える政治家がいれば、その人は“本物”だと思います。
源泉徴収制度を廃止すれば、サラリーマンは自分で確定申告をしなければならないので
確かに面倒です。しかし税に対する関心(政治への関心)は飛躍的に高まるでしょう。
政治に関心を持つ人が増えるのは、民主主義にとって、国にとって、有益なことです。
アメリカでパソコンがあれだけ普及しているのは、通信費の安さもありますが、国民が
確定申告をするためにパソコン(表計算ソフト)が必需品という要因も大きいようです。
日本でも源泉徴収制度を廃止すれば、政治への意識も高まるうえ、パソコン及びその関連
産業に特需が発生し、日本経済の活性化にもつながるでしょう。
政治家の方で「源泉徴収制度を廃止」を主張してくれる人がいないものだろうか?
(いないだろうな・・・)
それともうひとつ。もし源泉徴収制度を廃止して、国民全員が確定申告をするようになった
とした場合、是非実施してほしいことがあります。
それは、支払う税金の一部に対し、国民自身がその使い道を指定できるようにしてほしい、
ということです。つまり、確定申告をする際に自分の税金の何%かを「〜に使ってほしい」
と指定できるようにするのです。福祉に力を入れてほしいと思う人は「福祉関連予算」に
使うよう指定すれば良いし、年金問題に関心がある人は「社会保障費」に使うよう指定でき
ようにする。こうすることで、国民の政治への関心はさらに高まるのでなないでしょうか。
民主主義の欠点、最大49%の不満足の解消にも役立つと思われます。
源泉徴収制度を廃止とセットで、今すぐにも実施してほしい制度です。
な〜 です
私はKORNさんの最後の税金の使い道を指定できるするというのは
ちょっと。
昔何かの討論会で「日本ほど社会主義の国はないと思うんですよ」といわれた
評論家の人がいました。
「これまでの日本の会社では能力に関係なく、年功序列で給料が決まっていました。
つまりよく働く人も働かない人も給料は同じなんですね。働く人は働かない人の分まで
お金を稼いでいるわけです。これって社会主義的考えですね」
って。
なるほど、と感じました。
日本人は争いごとを好まない(単に私がそうなのかな)ので、個人主義というのは
なじまないと感じています。(今はアメリカ並みに何でも個人の権利とか言いますが
個人の権利、人権とはなに?)他人と協調して何かを実現するというのが理想的と
思っています。
だから税金を一杯払っている人もそうでない人も出来るだけ同じく幸せになれるような
社会がなってほしいと感じています。
だから税金を払わない人が肩身が狭い思いをするような制度はちょっと違和感を感じます。
私の考えている民主主義って民主主義でなくて社会主義なのでしょうかね?
な〜さんが、私の疑問をうまく代弁してくれました。
納税者が自分の税金の使い道に決定権をもつ、というのは、立憲主義の歴史において、デモク
ラシーと同時並行に広まってきた思想なんでしょうけれども、では、論理的にもデモクラシーと
同列に位置するのかというと、そこがどうもわからない。
「議席なくして納税なし」というアメリカ独立戦争の時のスローガンは、「納税なくして議席
なし」といった財産の有無に基づく選挙権の差別に転化してしまう、だから、これは民主主義と
少し違う原理に基づいているのではではないか、といつも疑問に思っていました。
ですから私は、たとえばサッカー場の問題でも、「住民であること」「納税者であること」二つの
資格において自覚的に議論をしてきたつもりです。
クライアンティリズム民主主義、とでもいうんでしょうかね。しゅうちゃんは大学でこのあたり、ど
のように整理して講義されてるんですか?教えてください。
>納税者が自分の税金の使い道に決定権をもつ、というのは、立憲主義の歴史において、デモク
ラシーと同時並行に広まってきた思想なんでしょうけれども、では、論理的にもデモクラシーと
同列に位置するのかというと、そこがどうもわからない。
アメリカに見る限り、民主主義の原点は、「議席なくして納税なし」、「納税なくして 議席なし」を同列にあつか
ってもいいんじゃないかなと僕は理解しています。
だって、独立前後の東部13州には自由民と呼ばれる市民権を持った人たちが自分たちの州を守る決まり、つまり、 憲章をつくり、それに従ってそれぞれの州を彼らが治めていたもの。そして、その自治を保障した憲章はイギリス国
王によって認められたものだったから、自らの自治を侵す課税に関しては、イギリス本国に対しては「議席なくして納税なし」の原理で、内に対しては、財産をもった自由民がその他の人を使い経済活動を行い、かれらだけが州を統治する、「納税なくし て議席なし」の状態だったもの。
>クライアンティリズム民主主義、とでもいうんでしょうかね。しゅうちゃんは大学でこのあたり、ど
のように整理して講義されてるんですか?教えてください。
う〜ん。しゅうちゃんに振ってきましたか?(笑)。
クライアント民主主義? うまい表現ですね? 正直、そのような発想でこの問題を考えたことなかったです。宿題にさせてください(笑)。
>私の考えている民主主義って民主主義でなくて社会主義なのでしょうかね?
そうともいえないと思いますよ。な〜さんの言われるような考え方を成り立ちうると思いますよ。
民主主義は個人の実質的平等を保障するものであると考える制度であると考えるのなら、資力に応じた税負担もありえますし、合理的理由から税を払えない人も国家から等しく恩恵を受けることができると考えることもできますから。
個人主義、個人の尊厳をどうとらえるからという問題に過ぎないと思いますよ。
ただ、税の使途を通して行政をコントロールする視点は重要だと思いますよ。ぼくは、KORNさんとは逆に、その支出が法律に違反していると考える支出に関して、予算に占めるその支出分だけ納税を拒否できる理屈を考えることができないか、まじめに考えたりもします(笑)。
納税意識と使い道のつながりについて、KORNさんの意見は良くわかったんですけど、社会保険料についてはどうですか?
な〜さん。KORNさん。NEOKIさん。 今のその一つが話題になっていますよね? これも、払っているという意識と
使い道意識させる必要があると言う意味で、税金と同様に考えてよいのか? 現実に国民健康保険税(税という名目とされているが、社会保険料とされている)と言う形で、払われるていますしね?
実を言うと、このスレッドを立てるとき考えていたストーリーは、前回のレスで終わりです。
よって、ここからは私にとって未知の世界です(笑)。正直言ってここまで続くとは思って
いませんでした。参加してくれた人ありがとうございます。久しぶりに知的な刺激を味わって
おります。このスレッド出して良かった…
支払う税金の一部の使い道を国民が指定する、という考えに対しどのような意見が出るのか
楽しみにしていたのですが、あまり評判が良くないようですね。個人主義と取られましたか…
過去の「国旗国歌論争」のスレッドを見てもわかるように、私個人は一貫して「個人主義」を
批判しています。な〜さんのおっしゃるように、個人主義というのは日本人にはなじまないと
感じているのです。日本人特有の「和の精神」は世界に誇れるものだと信じています。
(私はこれを「偉大なる島国根性」と呼んでいます(笑))
な〜さんと、NEOKIさんは政府に全ての予算配分を任せたほうが、結果的に公平になると
という考えですね。確かに本来の国の役目はそういうものだし、民主主義が正常に機能して
いたらうまくいくでしょう。でも今の日本の現状をみると私にはそうは思えないのです。
税金の一部を、国民自身が用途を指定することで、政治により民意を反映できるのではないか
と考えたわけです。“富裕な階層”がどう動くかにもよると思いますけど、少なくとも今より
国民全体が政治に関心を持つことは確かなので、やってみる価値はあると思ってます。
税金の何%を指定できるようにするのか?所得の違いによって比率を変えてみてはどうか?
いろいろシュミレートしたら面白そうです。やってみようかな…
>日本ほど社会主義の国はないと思うんですよ
これは同感です。日本はそのように意図していなかったにしろ、結果的に世界で最も
共産(社会)主義に近づいた国だと思ってます。資本主義・共産主義は「経済制度」
民主制・君主制は「政治制度」だと思うので、民主主義と共産(社会)主義が両立して
もおかしくないと思います。たぶんコミュニストの人は「共産主義こそ民主主義だ」
と言うでしょう。(このテーマも面白そうだからスレッド立てようかな(笑))
>ぼくは、KORNさんとは逆に、その支出が法律に違反していると考える支出に関して、予算に占めるその支出分だけ納税を拒否できる理屈を考えることができないか、まじめに考えたりもします(笑)。
私が意図していることと、目的はいっしょのような気がします。
しゅうちゃん、ぜひ理論体系化してください(笑)
>KORNさんの意見は良くわかったんですけど、社会保険料についてはどうですか?
・・・これは宿題とさせてください(笑)
な〜 です。
KORNさんの
>日本人特有の「和の精神」は世界に誇れるものだと信じています。
>(私はこれを「偉大なる島国根性」と呼んでいます(笑))
>民主主義が正常に機能して
>いたらうまくいくでしょう。でも今の日本の現状をみると私にはそうは思えないのです。
わたしもほぼ同じ考えです。
社会保険料や介護保険料についてのコメントもう少しお待ちください。
実は明日地区で介護保険についての講演をする予定で
準備が大変。
KORNさん、こんばんわ。
あっちこっちで遊び呆けている間に、議論が随分と進んで入りそこねました。アハハ。
図体が大きいと言うか、得体の知れないと言うか、取り留めもないテーマなんで
居酒屋に居る気分でスルメの足なんぞ囓りながら、一杯飲みながらでないとあんまり
面白い雰囲気になりそうにないよね〜。 (^_^;
この手の議論は30年前には散々やったんだけど、結局「結論が出ない。」と言うのが仲間内での
結論だったような気がします。
そこで、ちょっと視点を変えて・・・・( ま〜、別の切り口で・・・)
そもそも、「民主主義」なるモノは本当に日本に馴染むモノなんでしょうかね〜?
堺屋太一氏や野口悠紀夫氏は、現在の日本の現状を「1940年体制を引きずっている」と評していますが、
現代の大部分の日本人の「心象原風景」は、未だに江戸幕府開びゃく以来(1600年体制?) の
それじゃないでしょうか?
庶民レベルでは「長い物にはまかれろ」や「寄らば大樹の陰」や「泣く子と地頭には勝てぬ」などの
覇気の無さや、「出る杭は打つ」や「人の足は引っ張る」や「変人奇人は村八分」の均質性志向があります。
また、お上(立法や行政レベル)では 情報一人占めの「寄らしむべし、知らしむべからず」や
責任の所在が曖昧な 「集団無責任体制」がありますよね。
更に、町内会や同業者などの集まりでは「声の大きな人」や「口の達者な人」や「根回しの上手い人」
の意見がその集まりの`主流意見`になってますよね。
これらの日本人特有の体質の一部は、江戸幕府開びゃく以前からも受け継がれているのかも知れませんね。
日本人の心の奥底の心象風景は、世の流れに大変化が 起こっても、
そうは簡単には変わらないものなんでしょうかね〜?
..... トクトクトク・・・・ キュウーーッ。 旨いね〜〜この時期からの熱燗は。 えへへへ。
松っあん、こんばんは!
さすが“人生の達人”、素晴らしい酔い方をされてますね。
確かにこの問題、多分結論はでないでしょう(笑)
以前、デーブ川崎さんがこんなことをおっしゃってました。
「結論を出す必要は無いし、出ないことが多い。しかし出そうとした方が面白い」
・・・名言だと思いました。私もこの方針で行こうと思ってます(笑)
>ぼくは、KORNさんとは逆に、その支出が法律に違反していると考える支出に関して、予算に占めるその支出分だけ納税を拒否できる理屈を考えることができないか、まじめに考えたりもします(笑)。
これは笑いごとではなく、具体的な実践例がいくつもあります。
納税拒否については、軍事費支払い拒否など、かなり以前からいろいろな裁判があり、思いやり予算等違憲訴訟のように今でも進行中のものもあります。「良心的軍事費拒否の会」による活動もあります。納税拒否は古くて新しいテーマであり、これに触れた本もソローなどいろいろあるは
ずです。
こういったことをご存じのうえでのご発言なのでしょうか。
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月11日 01時58分21秒
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月11日 02時16分15秒
はい。お答えいたします。私の師匠はその軍事費支払い拒否の理論を日本で編み出した人の一人です
また、税法の研究もをしておりますので、そのことを十分承知しております
な〜さんのレスにもあるように、税金の支払いを指定することはちょっという考え方も多く、学会でも異端視され、冷笑する人が多いことも現実であることは否定できないと感じています。
ですから、
>税の使途を通して行政をコントロールする視点は重要だと思いますよ。
と断ってからレスを入れています。
税金の支払いを指定することという考え方や、納税拒否の考え方は、レスの意見にもあるように今は一般には受け入れられないだろうなと理解しています。学会でも多くの人は異端であると理解していると思います。
今は異端であるが、それが認められる日が来たらどうするのかな、という意味も込めて、「まじめに考えたりもする」、とレスを入れ、今に見ておれという気持ちの表現込めて書いたんですけどね。
異端が、いつか現実になる。そのために理論体系化する。それが学者の生きがいです。にっこり笑って、俺はやるよっていう人いないですかですか? 僕なんかそうなんですけど・・・。変ですかね?
>私が意図していることと、目的はいっしょのような気がします。
>しゅうちゃん、ぜひ理論体系化してください(笑)
というレスは、相当難しいと思うけどやってみたら、というKORNさんの叱咤・激励と受け取っているんです が・・・。 それと本当にしゅうちゃんがやれるのかな、という気持ちも込められたりしていて・・・(笑)。
もう一つ付け加えておきますね。なぜ、納税拒否や税の支払い指定が受け入れにくい理論であるか考えて見られたことがあるのでしょうか? まさに、国家の中で民主主義をどう考えるのか、と深い関連がありませんか? ですから、税のとらえかただけでなく、国民に負担を強いる社会保険料をどうとらえるのかもあわせて知りたいですから、ぼくは一方で質問をな〜さんやKORNさんになげかけています。
学問的にいうと租税概念をどう捉えるのか、ということですよね?これを踏まえた上で井戸端会議での意見はどうかぼくは知りたいんです。異端や少数意見は多数意見の拠り所を知るところから議論がはじまります。それから、説得力ある理論を編み出す努力が始まると思うのです。それがここで話題になっている民主主義を実現する手段の一つであると思っているのです。
別の切る口がでてきたのでROMする楽しみができた、と思っていたところなんですが。
な〜 です
社会保険料のことで一言。
実は私は介護支援専門員の試験勉強をしておりましたのが
どしても保険料と税金の違いがよくわかりませんでした。
現在の介護保険は全体の費用のうち保険料の占める割合は50%
国庫負担が25%都道府県が12.5%市町村が12.5%だったと思います。
自民党が保険料で賄うといっていますが元々税金も含まれている気がするのですが。
自由党は税金で賄うといっています。現在保険料徴収を延期してその分は赤字国債で
賄うことになりました。これは税金を使用すると言うことですよね
それでどうしても保険という概念がつかめません。
自己負担があると言うことが保険であると考えればいいのでしょうか?
今までの福祉サービスは市町村の会計(税金)から行われていたのでは?
だから裕福な自治体の福祉は充実していたような気がします。
でもそれは介護保険になっても変わりません。
細かい運営は自治体の条例で決められるからです。
例えば健康保険について言えば私は
日本の健康保険は富める人もそうでない人も同じ水準の医療を受けられる
ことがすごいと感じていました。
でもそのせいで健康保険が破綻しそうになっています
今や、自己負担が増え、お金持ちでないと高度医療を受けられないという現実が
出てきています。
それともこれが本来の保険のあり方なのでしょうか
未だに保険と税の区別が付きません。
しゅうちゃんさん教えてください。
>相当難しいと思うけどやってみたら、というKORNさんの叱咤・激励と受け取っているんです
プロの研究者であるしゅうちゃんに対して叱咤・激励なんてとんでもないです。
文字通り「期待してます」と言う意味です。ただ、しゅうちゃんがそんな“異端”な考え
を持っていたというのがちょっと意外であり、嬉しくもあったのであのように書きました。
それから税と社会保険料についてですが、私は今まで同一概念で考えてました。
(しゅうちゃんの書き方からすると、明確に区別されるべきものなのでしょうか?)
そもそも税制度とは、国民全体に財を効率良く再配分(富める者からそうでない者へ)
することで結果的に国民全体の満足を上げる制度だと認識しています。
そのような観点から言えば両者は、名称こそ違えども同じ物と思っていたのですが…
これはなかなか難しそうですね。どなたか別のスレッド立てませんか(笑)
KORNさん:
>しゅうちゃんの書き方からすると、明確に区別されるべきものなのでしょうか?
税、社会保険料、受益者負担金はわれわれの世界では明確に区別される、と考える人が多数(限りなく)でしょうね。
>そもそも税制度とは、国民全体に財を効率良く再配分(富める者からそうでない者へ)
することで結果的に国民全体の満足を上げる制度だと認識しています
その点に関しては、認識は学問の世界でもいっしょだと思います。問題は行政から受けるサービスを税の対価として認めるのかどうかというところから議論が分かれると思います。
な〜さん:
実は僕も同じ疑問を持っています。税というものは特定の人に向けられた行政のサービスのために用いられるものではなく、社会全体のサービスのために用いられるお金である。それに対して、特定の人たちの相互扶助(助け合い)のために用いられるお金の一つが社会保険料である。
前者はお金を支払うものとサービスを提供するものの間で必ずしも対価としてお金を支払うものではない。しかし、後者は対価として支払うことが仕組の前提である。
荒っぽく(わかり易く考えるために単純化しました)考えれば、こういう考え方を基に税と社会保険料が区別されてきたと思うのですけど、実際の社会保険制度の運用から考えれば、そのとおり厳密に区別されているわけでなく、いくつも疑問が出てきますよね?
この二日ちょっと慌しくしておりますので、ぼくの回答しばらくお待ちください。
> はい。お答えいたします。私の師匠はその軍事費支払い拒否の理論を日本で編み出した人の一人です
> また、税法の研究もをしておりますので、そのことを十分承知しております
>
お答えありがとうございました。上のご発言では具体的な裁判例などに触れないで「まじめに考えたりもします(笑)。」と書かれていたので、実際に裁判で苦労されている方々がご覧になったらどんな思いをするだろうか、などつい余計な心配をしてしまいまして。
今後は現場の方にとっても役に立つような理論が生まれることを期待しております。
ついでに、関係がありそうなホームページを見つけたのでいくつか紹介しておきます。とっくにご存じかもしれませんが、皆さんのご参考になればと思いまして。
http://www.jca.apc.org/peace-st/saibansyo/kitano1.html [市民平和訴訟の会・東京]税法学者の証言(その1)
http://www.jca.apc.org/peace-st/saibansyo/kitano2.html [市民平和訴訟の会・東京]税法学者の証言(その2)
http://www3.justnet.ne.jp/~HAL9000/no-omoi.htm 異議あり!思いやり予算・関西
http://www.cyberoz.net/city/hirohase/hase3.htm 納税者の権利憲章について
http://www.cyberoz.net/city/hirohase/syouhisyakyokai.html 「納税者の権利」制度導入の必要性
僕の師匠が誰だかわかっちゃいましたね。
平和運動と裁判にかなりお詳しいかたとお見かけいたしました。
すごく重要な指摘が上のレスの中に僕は含まれていると思いますよ。
裁判所の判決の役割をどう理解するのかも、裁判例を考える場合、視点においているから上のようなレスになったことだけは付け加えておきたいと思います。
どういうことかといえば、裁判で意に反する確定判決が出た場合、法的効果はすべての人に及びますよね。そうすると、そういう危険性を察知して、裁判以外の方法を選択した同じ思いの人たちにもその効力が及ぶことになります。その場合、後者の人たちの立場、スタンスはどうなるのか? 僕はいつも悩んでいます。あえて触れなかった一因は
はそこにあります。
その点はどう考えたらよろしいのでしょうか? せっかくレスを書き込んでいただいたのですから、ご教示下されれば勉強になると思うのですが。 正直、その点も絶えず悩んでいます。
ご紹介いただいた師匠の著書は研究室に私費でそろえておりますので、必要とあればご連絡ください。研究活動に
支障のない範囲で協力できると思います。
詳しいだなんてとんでもありません。
実はいろいろと忙しくて皆さんの長いご議論には付き合いきれずに飛ばし読みをするだけの通りすがりの者でございます。軍事費支払い拒否についても、そういう裁判や運動をしている方がいるということを(新聞か)何かで読んだ記憶があるだけだったのですが。たまたまご発言のあたりを見かけたときに、具体的な事例があるのにそこには触れずに、これから理論を作っていくような(笑い)話しになることに違和感を覚えたものですから。
ご紹介したホームページは、サーチエンジンに適当なキーワードを入れて探していけばすぐに見つかるようなものばかりです。こういう具体的な事例や動きなどを考えに入れることで、皆さんのご議論がいっそう深まるのではないかと思って紹介したまででして、それぞれのページや関連のリンクは膨大なのであんまりよくは見ていないのですが。
そういうわけで、裁判をする人としない人への効力などという難しい問題について教示するなんて、とんでもございません。ただ、素朴に考えまして、裁判しないという選択をする場合でも、裁判で何がどう問題になったのかということは十分に知っておく方がよいと思います。議論をする場合でも、まずどういう事例があるかということを十分に知った上で、取り入れるかどうかを選択することになるのではないでしょうか。
了解いたしました。
税の使途をコントロールするという考え方が、わが国において、法律学の世界で考えられるようになったのは比較的最近のことですよ。そうですね、1970年代後半からのように思います。そして、その存在が学問上市民権を認められるようになったのは1980年代後半になってからではないでしょうか?
税の支払い拒否の考え方もその一環として運動家の人たちから協力を依頼され、師匠が編み出された理論ですが、お弟子さんたちの租税概念の研究の積み重ねを基に編み出されたものなのです。そういう意味では、まだまだ完成途上であり、師匠が編み出した理論を発展させ、完成させるのが弟子の役割と日ごろからおっしゃっていらっしゃいます。
そして、やはり、師匠の考え方は学会では異彩を放って、異端とみなす人が多いですから、その理論を編み出すのに苦労されていらっしゃるのは運動家の方というよりも、師匠自身だと僕は思っております。その意味で、師匠に師事できたことを誇りにさえ思っております。
また、いろんな団体から依頼を受けたとき師匠の哲学からめったにお断りにならない。また、師匠しか依頼できない現状である。そのため、弟子に協力要請をしながら、それにお応えする、そのなかで私も育てられたものですから、弟子も一緒に苦労しながら成長する。そんなパターンで今があるということでしょうか。
税の使途をコントロールする考え方が問題の大前提にあるわけで、運動論に対してどういうスタンスで臨むかお弟子さんたちの間でも微妙に意見は異なると思いますよ。また、税の支払い拒否の理論は軍事費支払いだけではなく、その他の問題をも射程距離におかなければならないですから、かえって、軍事費支払を強調すればするほど、税の使途をコントロールする考え方の骨格が誤解されかねない、と僕は思っているんです。
異端で、いままで冷遇されていた、しかし、ようやく市民権を得るようになってきた。そして、地方自治の分野でそれも何とか完成させたい。そういう忸怩たる思いが私の上での短いコメントです。
な〜さん:
お答えどうしましょう? ちょっとスレッドが重くなってきました。その2を立てたほうがいいですか?
決めあぐねています。
2日ほど慌しくしていたため、大変疲れ、週末は佐賀県の武雄温泉と有田で久方ぶりの命の洗濯をしていました。
温泉に浸かった後、有田ポーセリングパークでのんびりしていました。ポーセリングパークを見て、下熱で話題になっている「観光」について考えさせられることが多かったです。
スレッドのテーマと異なりますので、この点は別の機会に・・・・。
な〜です
しゅうちゃんさん どうもどうも
もうすこし医療保険と介護保険を調べてからスレッドをたてようと思います
そのときはいろいろ教えてください。
しゅうちゃん、お忙しい中、いつも丁寧なレスありがとうございます。
本当に勉強になります!
個人的には“税の使途をコントロールするという考え方”が異端と見なされる学会の現状
には疑問を感じます。一般の感覚ではそれほど奇抜とは思えないのですが…
やはり“比較的新しい考え”ということがネックなのでしょうか?日本の学会ではその分野
の「大御所」が言い出さないと、新しい考えが受け入れられない傾向があると聞いたことが
ありますけど・・・
がんばってください、しゅうちゃん。影ながら応援させていただきます。
学問の為の学問ではなく、真に世の中の役に立つ学問の為に!
・・・でも“学問の為の学問”も面白いんですよね(笑)
役に立つか立たないか、後世にならないと判断できない場合が多いし。ほんと難しいですね。
>もうすこし医療保険と介護保険を調べてからスレッドをたてようと思います
な〜さん、よろしくお願いします。楽しみにしてますよ〜〜
KORNさん:
レスありがとうございます。僕もKORNさんやな〜さんと意見交換をする中でおおいに刺激を受けました。仕事上のヒントもいただきました。ありがとうございます。
な〜さん:
中断したままのHPの作成の作業も再開しようと思っています。な〜さんのレスが良い踏ん切りになりました。しばらくの間、下熱を留守にしようと思います。HPができたら、個人的にご連絡をKORNさん、な〜さんにも差し上げますので、よろしければご覧下さい。でも、仕事が詰まっているからいつになることやら。
遊び人の松っあんさん:
>そもそも、「民主主義」なるモノは本当に日本に馴染むモノなんでしょうかね〜?
この言葉お聞きして非常に意を強くしてます。実は同様の思いを著書の中で書いたことがあります。
松っあんさんの見解をもう少しお聞きしたいな、と思っていたのですが、スレッドとしてはちょうど
良い踏ん切りだと思います。また、是非別の機会に意見をお聞かせください。
皆様、風邪が流行っているようです。健康にはくれぐれもご留意下さい。では、では。
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