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 投稿番号:100474 投稿日:2000年10月17日 03時34分47秒  パスワード
 お名前:nyao
乃木稀典と児玉源太郎
キーワード:日露戦争 乃木 児玉
コメントの種類 :歴史  パスワード

私は下関出身でもなければ乃木稀典の信奉者でもありません。
軍人としての乃木に対してはむしろ批判的な立場です。
そんじゃなぜこのスレッドを立てたのか?
乃木の自殺において明治天皇の死去は、
最後のトリガーに過ぎなかったのではと思うからです。

日露戦争で乃木の息子が2人とも戦死したことは有名ですが、
その戦争の直後に彼の最大の親友が急死したことは、
一部の歴史家を除いてあまり知られていません。
その親友の名は児玉源太郎。
徳山藩出身で内務大臣・台湾総督などを歴任した、
明治時代を通じて抜群の才覚と活発さを持った人物でした。
児玉と乃木とは西南戦争前からの戦友。
軍人の専門職たる軍事においては児玉が優れていましたが
児玉は乃木の清廉潔白について常に一目置いており、
軍旗を盗られたあと自殺しようとした乃木を制止し励ましています。

そして問題の日露戦争・旅順攻防戦。
元々旅順攻略は海軍のためにロシア艦隊を撃滅するのが目的でした。
ところが乃木の第3軍は要塞全部を真正面から攻略しようとして、
次々と無為に戦死者を増やしつづけていました。
指揮官としての責任にさいなまれ、
一方激変した軍事知識については無知に近かったため、
専門家とは名ばかりの部下たちに文句も言えない。
そして先述の通り息子たちの相次ぐ戦死でとうとう不眠症に。
このままでは埒があかないどころかバルチック艦隊がやってきて、
海軍全滅・海上交通路遮断で日本そのものが敗れてしまう!
だが戦っている最中に上層部を入れ替えるとなると、
マイナスイメージで頼みの外債の買い手がいなくなってしまう。
政府と陸軍の要職を歴任して日本の弱点を知り尽くしていた児玉は、
これ以上待てぬとばかりに内陸部の戦場をこっそり抜け出し、
親友乃木の面子を立てつつ戦術の大転換を行いました。
どうやったかって?
児玉はお人よしの乃木を口車に乗せて臨時に指揮権を譲ってもらい、
作戦会議で乃木の部下たちを叱り飛ばして命令したのです。
<児玉は乃木の拒否に備え総司令官の大山巌から密命を受け取っていた>
結果は5ヶ月以上の大苦戦がたった1週間で余裕の勝利へ。

時には漢詩を吟じあい時には悪口を言い合ったり、
「乃木のジジイ」「児玉のジジイ」と呼び合った仲でしたが、
明治39年に児玉が心労で先に死んでしまいます。
何度も自分の危機を救い共に歩んできた親友を突然失い、
乃木は相当精神的にショックを受けたはずです。
今までは児玉が自分を助けてくれていたのだが、
もうこれで誰も自分の過ちをとどめてくれない…。
ひょっとするとこのとき、
乃木の精神は「死んでいた」のかも知れません。
もし児玉の死が明治天皇より後だったら…?
児玉はやっぱり乃木の自殺を思いとどまらせようとしたでしょう。

もっともこれは学生時代の日露戦争研究からの続きで、
最近になって思いついたことです。
すでにこの筋で先行研究があるかもしれませんし、
まだ見ぬ不世出の文献があるのかもしれません。
はて結論はどうなることやら…。

【参考文献】
司馬遼太郎『殉死』『坂の上の雲』(文芸春秋)

[1]GOTOさんからのコメント(2000年10月17日 10時24分40秒 ) パスワード
  

>すでにこの筋で先行研究があるかもしれませんし、
>まだ見ぬ不世出の文献があるのかもしれません。
>はて結論はどうなることやら…。
>【参考文献】
>司馬遼太郎『殉死』『坂の上の雲』(文芸春秋)

これは、一般の人にわかりやすくするために、
参考文献として、あげてくれたんですよね?

これを、参考にして、研究したのではないですよね?

うえの2冊は、小説ですよね。
[2]fumichanさんからのコメント(2000年10月17日 13時02分50秒 ) パスワード
  

 『坂の上の雲』 面白かったですねえ。誰がどうした、どう言ったという事ばかり羅列されがちな歴史小説が多い中、人物が生き生きと描写される司馬遼太郎の小説は本当に面白かった。乃木から児玉が指揮権を委譲されるときの御互いのやり取り、えてすれば乃木の自殺を招きかねない状態をうまく切り抜けた児玉の思いやり、本当にわくわくしました。
 日露戦争では乃木だけではなく、秋山兄弟の活躍も忘れてはなりません。初めて機関銃を自ら率いる騎馬隊(騎兵隊だったですかねえ)が装備し、貧弱な日本軍をぎりぎりの所で勝利せしめた兄と、海軍参謀となった弟。兄の方は最初から決して騎兵隊になりたかったのではなく、出身地の御殿様の息子がフランス留学するのに御供に行かなくてはならなくなったために仕方なく騎兵隊(フランスが当時騎兵隊のメッカがったそうです)の勉強も兼ねて渡仏したのが、巡り巡って日本を救った結果となり、人生ってどこでどう変わるかわからないなーと面白く思いました。
[3]GOTOさんからのコメント(2000年10月17日 17時28分50秒 ) パスワード
  

>乃木稀典

ふつうは、希典と書きます。
[4]nyaoさんからのコメント(2000年10月17日 21時21分11秒 ) パスワード
  

>GOTOさん
そういえばそうでした。(汗)
名前の記述を間違えるとは…。
訂正してお詫びいたします。
繰り返しますが私が大学時代に研究したのは、
日露戦争における日本の戦略が適切だったかと言うことです。
そのための資料には防衛庁戦士編纂室からの資料や、
『マクミラン世界歴史統計』をはじめとする各種統計、
バジル・リデル・ハートの『戦略論』やクラウセヴィッツの『戦争論』、
とにかく引っ張り出せる限りの資料を当たって得られた結論が、
「最低限ロシア海軍の艦艇を沈めるだけでも良かった」
「満州の内陸奥深くまで進出する必要はなかった」
ということでした。
(おかげで卒業寸前まで図書館に通い詰め…)

>fumichanさん
研究に興味を抱いたそもそものきっかけは、
中学時代に秋山真之の伝記を読んだからです。
その後高校時代小遣い銭を貯めて『坂の上の雲』文庫版を買い集め、
父からもらったリデル・ハートの『戦略論』を読んで更なる疑問が生じ、
とうとう大学4年間はこの研究にはまってしまいました。

さぁて今回の命題をどうやって証明するか?
平日多忙で図書館になかなか行けない勤労青年にとって、
これは難しい課題でありんす。(汗)
[5]fumichanさんからのコメント(2000年10月18日 15時19分00秒 ) パスワード
  

 nyaoさんへ

 中学のころに秋山真之に興味を持たれるなんてなんとすばらしい。あの時代の人の肝っ玉の座りよう,不骨だけども堂々としてなおかつ細心な生き方には本当に感服します。一小市民となってしまった私にはとても真似できるものでは有りません。
[6]GOTOさんからのコメント(2000年10月18日 15時37分32秒 ) パスワード
  

>そのための資料には防衛庁戦士編纂室からの資料や、

参謀本部編纂「明治37・38年日露戦史」全10巻も
ありますね。

ぼくは、日露戦史には興味はありませんが、
乃木将軍に対しては、小学校校歌にもその名がありまし
たし(ノギタアイショウオウヲーハジィーメェトーシ)、
長府・覚苑寺の銅像のしたでよく遊んでいたので、
親近感があります。
[7]渡辺慶太郎さんからのコメント(2000年10月21日 09時20分38秒 ) パスワード
  


私は、nayoさんの結論とは違い、乃木は児玉がいたとしても
「殉死」していただろうと思います。また児玉も止めなかったで
しょう。
ご案内のとおり、西南戦争で軍旗を失い、まさにそれから乃木の
苦悩は続いたわけで唯一、明治天皇に奉じることがその償いであ
った乃木にとって「殉死」は論理的帰結です。
また、乃木は学習院院長時代、後の昭和天皇に「中朝事実」こそ
が日本の国体の本質であると喝破されています。乃木の「殉死」
はこの「中朝事実」と密接不可分であると思います。

児玉は日露戦争時、台湾総督・内務大臣から参謀次長になりまし
たが、台湾総督・内務大臣というのは親任官です。今で言うと、
認承官、大臣と同じです。ところが参謀次長というのは認承官
ではないのです。格下げになるのです。その格下げを甘んじて
田村少将のあと自分で参謀次長になったのです。しかも田村は
児玉の後輩です。最古参の中将で内務大臣兼台湾総督をやって
いたものが自分から志願して参謀次長になったのです。
このような自らの名誉、地位にいっさい関係なく義に生きた人
だったからこそ乃木の気持ちが痛いほどよくわかったでしょう。
「乃木を変えてはならぬ」このことが明治天皇と乃木の結びつき
を端的に表しています。






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